表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
高時が首  作者: チゲン
8/15

第8幕

 一夜明けて、五月二十六日。

 早朝の霧が晴れた頃を見計らい、照隠と由茄は舟で入間川を渡った。

 去る十一日、新田勢はこの付近一帯に陣を張ったという。だがそう言われても信じられないほど、辺りは草の匂いと静けさに包まれていた。

 この戦場での勝利を皮切りに、新田勢は日の出の如き勢いで南下していったのだ。

 向こう岸に着いても、由茄は川べりに立ち尽くしていた。声を掛けようとして、照隠は言葉を詰まらせた。

 由茄の背が震えていた。

「殿が、泣いておられます」

 由茄の声には、嗚咽おえつが混ざっていた。

「起きたのか」

 由茄に抱かれた首桶から、それらしい気配や妖気は漂ってこない。

「どんどん鎌倉から離れていくと、泣いておられます」

 細い嗚咽の声が、川風に乗って武蔵野の原野に流れていった。

 どんな死骸を前にしても悲鳴ひとつあげなかった彼女が、高時が悲しんでいるというだけで泣いている。

「そこまでして……」

 昨日、由茄が宗治丸に連れ去られようとしたときに、首は彼女を守るどころか目覚めもしなかったというのに。

 気が付くと、嗚咽の声はやみ、由茄は照隠の目の前に立っていた。

「先へ参りましょう」

 毅然きぜんとした眼差しが、照隠をうながす。涙の跡はもうどこにもない。

 二人は歩きだした。

「あの……昨日は危ないところを助けていただいて、誠にありがとうございました」

 空耳かと思って、照隠は周囲を見回してしまった。

 台地へ上る切り通しの道を、二人は歩いている。

「あのときは気が動転して、すぐにお礼も申し上げられず、ご無礼いたしまして」

 由茄が横に並んだ。微笑みを浮かべている。

 霧が出ていた訳でもないのに、照隠にはその笑みが、おぼろげにしか見えなかった。手を伸ばしかけて、慌てて我に返った。

「不思議な女子だのう」

 知らずに口をついて出た言葉だった。

「不思議でございますか」

「気を悪うされたか」

「いえ」

 由茄は胸に抱えた首桶に視線を落とした。

「わたしは鬼でございますから」

「そういうつもりで言ったのではない」

「これはまた……重ね重ねご無礼を」

 休養が充分だったので、野山を散策しているように足取りは軽かった。

「御坊は、なぜわたしどもに、ここまで親切にしてくださるのですか」

 今日の由茄は、いつになく饒舌である。

「なぜ、と言われても困るのだが」

 照隠はのどの奥で唸った。

「苦しんでいる者を救うのは、仏道を歩む者の務めだ」

「ですが我が主は、もはや神仏にも見離されておりましょう」

「そんなことはない。少なくとも、そなただけは救わねばならぬ」

「しかしわたしは……」

「わしが救おう」

 照隠はきっぱりと言った。

「わたしの身は、常に殿と共にあります」

 由茄の声は穏やかで、揺るぎなかった。照隠は錫杖を握る手に、少しだけ力を込めた。

「なぜそうまでして、得宗家に尽くす。寵愛ちょうあいを受けたという恩もあるだろう。だが何故、得宗家はそなたに取り憑いたのだ」

「……あの日の明け方、鎌倉は新田の放った火に包まれておりました」

 幾分間を置いて、由茄はぽつりと語りだした。

「火はすぐに北条の御館にも回ってきました。殿は出陣の支度をなされると、東勝寺へと移られました。側に仕えていた女たちは皆逃がされましたが、わたしはこっそりと殿の跡を追ったのです」

 外に出ると鎌倉は火の海だった。

 あかつきの空に紅蓮ぐれんの炎が舞い上がり、荘厳そうごんな鎌倉の町を呑み込んでいた。逃げ惑う人々の声や子供の泣き声、馬蹄ばていや弓の音が飛び交っていた。

「この世のものとは思われぬほど、美しい景色でございましたなあ」

 由茄は遠くを見るように目を細め、うっすらと笑みを浮かべた。

 その目は紅よりも赤く輝いていた。

 照隠は吸い寄せられた。意識が絡み取られていくようだった。

「……ではそなたは、得宗家の最期を見取ったのか」

「それは」

 一族郎党の死骸と血の海に囲まれ、高時は座していた。

 誰かが火を放ったらしく、きな臭い匂いと火のぜる音が、堂内に弾けていた。

「それは」

 高時の首が軽々と飛び、由茄の目の前にころりと転がってきて……。

 由茄は言いよどみ、目を伏せた。赤い輝きは失せていた。

せんないことを聞いた。許してくれ」

「いえ」

 由茄はそれきり口を噤んだ。

 照隠も何も言わず歩いた。

 台地に差しかかる頃から、少しずつ曇り始めていた。鎌倉が落ちたという日も、こんな天気だったような気がする。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ