第7幕
由茄は、おきりの宿屋の部屋から外に出ようとはしなかった。
蔀戸から覗く裏庭の風景を、飽きもせずに、ぼうっと眺めている。裏庭といっても囲いは低く、隣家の棟が丸見えだが。
その隣家の庭木の陰から、密かに由茄の姿を覗き見ている男がいた。
男の図体は大きい。六尺近くあるだろう。腕や足も、並の男の倍は太い。うまく隠れているつもりなのだろうが、こちらも丸見えである。
藍染めの直垂を着て気取っているが、その男ぶりよりも荒々しさが目立った。
名を宗治丸という。飯能に居を構える田城家の三男坊である。
田城家は小さな田舎武士で、今度の戦では新田側に与した。現在、主だった一族は鎌倉に出陣している。だが部屋住みの宗治丸は残された。
この宗治丸という男、気に食わないことがあるとすぐに癇癪を起こす。
また極度の好色で、相手が人妻だろう後家だろうと、おかまいなしである。揉めごとも日常茶飯事だった。
一族でも手を焼いているのだ。要するに鼻摘まみ者である。
しかし相手が武家なだけに、この宿場で逆らえる人間はいない。厄宗治などと呼んで、陰口を叩きあうのがせいぜいだ。
その厄宗治こと宗治丸だが、十五の頃から馴染みの遊女屋で、今日も今日とて朝から女色に耽っていた。
昼を過ぎると、さすがに飽きてきたのか、暇を持て余して町を練り歩いていた。そこで偶然、照隠と由茄の姿を見かけたのだ。
宗治丸の喉仏が、ごくりと動いた。その獣のような眼は、蔀戸から覗く由茄の姿態に釘付けだ。
由茄は先ほどから座ったまま、人形のように、ほとんど動こうとしない。
「へへ」
宗治丸は頬を緩めた。
連れの山伏は、どこかへ出掛けたまま戻ってこない。娘は土地に不慣れなせいか、宿屋から一歩も出ようとしない。今なら彼女は一人である。
木の陰から飛びでると、垣根を飛び越えて、堂々と部屋のなかに入ってきた。
「邪魔するぜ」
突然の来客に、由茄は困惑の表情を浮かべた。宗治丸はそれに構わず、高みから野太い声をあげた。
「俺は田城の宗治丸ってもんだ」
由茄は呆然と、この見知らぬ傍若無人な大男を見上げていた。
「あんたみたいな別嬪、初めて見たぜ」
粗野な顔つきをしているが、笑うと人なつこい感じになる。
「どっから来たんだ。信濃か。上野か」
宗治丸は、由茄が北もしくは西方面から来たと思い違いをしていた。
無理もない。鎌倉から北上してきたなどと、想像もできないに違いない。
「どこに行くのか知らねえが、街道は危険だぜ。しばらく俺の館にいて、様子を窺った方がいい」
「ご親切はありがたいのですが」
由茄は口調だけは丁寧に断った。目はすでに彼を見ていない。
「何だったら、連れの山伏もいっしょでいいぜ」
宗治丸は由茄の右手に回り込み、体を屈めて彼女の顔を覗き込んだ。
照隠のことは、おまけ程度にしか考えていないようだ。邪魔するようなら、ねじ伏せる腹づもりである。
そのとき、由茄の傍らに置かれていた首桶が目に入った。
「これひょっとして、あんたの旦那の首かい」
「はい」
「そうかい、気の毒になあ」
宗治丸はしみじみと念仏を唱えた。芝居ではなく、本心から由茄に同情しているようだった。情に脆いところもあるらしい。
粗野な男が神妙な顔をしているのがおかしかったのか、由茄はくすりと笑った。
宗治丸は唾を飲み込んだ。
十八年間、交わってきた全ての女は、その笑みに掻き消されてしまった。
「あんたを見たら、天下の得宗家だって腰を抜かすに違いねえ」
深い感嘆の息と共に、宗治丸は言葉を吐きだす。
「腰は抜かされませんでした」
「うん?」
宗治丸は首を捻る。
そのとき、部屋に人影が入ってきた。
「何をしておる」
照隠である。手には錫杖を握っている。
「ああん?」
宗治丸が、屈んだ姿勢のまま、背中越しに山伏を睨みつけた。
「面倒なことにならぬうちに、引き取るがよい」
「へっ」
宗治丸は鼻息荒く立ち上がった。
照隠より、頭ひとつ以上大きい。見下ろす目は、不敵な眼光を放っている。
「引き取れだと。この女を俺が引き取れと言ったか」
声を張り上げると、宗治丸は唇の端を吊り上げた。
照隠の目が、すっと険しさを帯びる。
「どこの誰か存ぜぬが、わしらに構わないでいただきたい」
「ああ、おめえには構わねえよ」
その頃になると、さすがに宿屋の者も不穏な空気を感じ取っていて、遠まきに二人の様子を窺っていた。
おきりだけは、慌てた様子もなく静観している。
「さあ、こんな坊主はほっといて、さっさと行こうぜ」
宗治丸は由茄の腕を取ると、返事も待たず強引に立ち上がらせた。痛みのためか、由茄が短い悲鳴をあげた。
「俺んとこ来りゃ、美味いもんだってたらふく食わしてやるよ」
「お放しください」
だが女の力では、宗治丸の丸太のように太い腕をどうすることもできない。
照隠が、宗治丸の前に立ちはだかった。
「どきな」
言うが早いか、もう片方の腕が、うるさい蠅でも追うように払われた。
野次馬たちは思わず目を閉じた。哀れな山伏が、枯れ木のように吹き飛ばされる姿を想像したからだ。
照隠は身を屈めると、宗治丸の太い腕をひらりと躱し、錫杖の先をその隙だらけの腹に突き入れた。
「うっ」
赤ら顔が、みるみる蒼白になる。
その場に膝を突くと、哀れな大男は宿屋を揺るがすほどの地響きとともに床に倒れた。
すでに気を失っていた。