58 向き合う
雪を掻き分けながら巨体が突進してくる。
「……追い払うだけ、追い払うだけ!」
「さんざん脅かされたのに、優しいねトテは」
「こんな大きな生き物に敵意を向けられたことなんて無いですもん! 出来る事なら穏便に済ませたいんです!!」
私たちなんか歯牙にもかけずに素通りしてくれればと楽観していた想いが、立ち塞がる私たちを視認した獣が歩みを止めたことで霧散する。
「……トテに用があるみたいだね。実は知り合いだったりするのかな?」
「さっき会ったばかりですよ」
「一目惚れって奴か……わかるよ。だけど、トテと話をしたいならまずは私を通してもらわないと!」
「私たちが殺気を込めて立ち塞がるからきっとこの子も構えてるんです! 通しちゃいましょうよ、後ろにはデジーさんしかいませんし!」
獣が鼻を鳴らしながら顔を向けてきたのは、何故か私。こっそり背後に回ろうとするデジーさんは眼中に無いようだ。
「……邪魔だけはしないで?」
ルクスルが手のひらをデジーさんに向けて停止を求める。
「分かってる、俺にどうこう出来る相手では無いってことは……」
「……デジーはあいつを牽制しながら離れてて、トテが怖くて泣き出す瞬間を拝むのは私の特権だから」
「どんな時でもルクスルは正直だな⁉︎」
「……それじゃあ、トテの全力を見せて貰おうかな? あの子の攻撃を受け止められる……?」
……正直言って難しい。頑丈な壁を作るにはそれなりの工程が要るから、この子の突進を受け止める為には見てから作るのでは遅すぎる。
「取り敢えず置いてみます」
……それなら先手必勝ってことで、雪に突き立てた壁にこの子がどういう反応を示してくるかを窺ってみる。……回り込んで来るのか、邪魔だと難なく蹴散らして来るのか……。
そもそも雪が深くて、地面に強く固定するには辺り一面の邪魔な雪を根こそぎ掘り起こすしかない。だけどそんなことをすれば、雪と土の境目を二人が意識してしまい、転倒ないし動きづらくなってしまう。
……今回は、私一人で戦っているわけでは無いのだ。
獣は突然出来た壁に一瞬だけ驚き、身体の側面を擦り付けながら押し倒そうとしてきた。この気温の中走り回っていたので背中に付いていた泥が凍り付き、背中の毛が棘のように鋭くとがってしまっている。
壁にいくつも穴が空けられたけど、この隙に踏ん張っている前脚に樹で出来た重りをくくり付け、動きを鈍くさせようと試みる。
……案の定外された。
獣が腕の重さなんて苦にせず、真下へ勢いよく叩きつけたのだ。
「――豪快ですね⁉︎」
雪が舞い散り視界が遮られる。
獣の動きは止まらない。重りが腕から外れたことにも気付かずに、一心不乱に暴れる姿は……とても楽しそう…だ?
「……もしかして⁉︎」
足を止めた今ならさっきみたいに落とし穴を掘って、今度は生き埋めに出来る――では無い。
「こいつ、泥で遊びたいだけなんじゃないか……?」
デジーさんも同じことを思ったようだ。
私が掘った穴程度では泥の量が少なかったから、靴底から土の臭いを漂わせている私の跡を追って来たのだろう。現に、獣の身体に付いた泥は壁に擦りつけたせいで落ちきっている。
「……それなら、穴を掘るの……手伝ってあげます!!」
泥と雪とが交わりぬかるんだ地面を更に撹拌する。呆けたような顔の後、べちゃべちゃと音を立てながら転がりだした獣の姿に子供みたいだなとお姉さんぶりながら、勝てそうもなかった相手を足止めすることが出来たと私はようやく一息つけたのだ。
「ルクスル、倒せましたよ!」
「……うん、これに懲りたらトテに手を出そうとは思わないことだね!」
「何処が⁉︎ どう見ても便利屋だと思われて春になるまで付き纏われる案件だろ⁉︎」
……でも、追ってきた理由を察して泥を用意してあげたのに、隙だらけになったからって斬りかかりたくはないし、失敗した時の報復も怖いから、泥に気を取られている今のうちに離れたい。
「トテは優しいから、無駄な殺生を好まないんだよ」
「そうか? 獣が怖くてこれ以上近寄りたくないって顔に書いてあるぞ」
「慈愛の心で近寄って、それでも敵意を向けられたら全力を出すしかなくなるからね。制御出来ずに暴れ出す自分の力を恐れているんだよ」
「……確かに、ルクスルにしがみついて震える姿はそれっぽいな」
……このままでは、私の全力をもう一度見たいとかルクスルが言い出して獣に茶々を入れかねないので、潤んだ目で退散を進言するのが得策かと思いました。
冬の終わり。
境界線のように、ここから先の森からは雪が無くなっていた。山から下りたことで気温がわずかだけど上昇した結果らしい。
「……春が来ているみたいです」
「むしろ、いつまで冬と戯れてるんだか。今年はいつもより雪は少なかったって言うのに」
踏み締めた土の感触は久しぶりだ、……泥は含まれないことにする。
「……少し行くと川がある。今日はそこで休んだ方が良いな」
雪が無くなったことで少しは歩きやすくなるかもと思ったけど、地面を流れる雪解け水が森全体を小川のようにしてしまっている。
「……足が水に落ちました」
「俺もだよ、……もう諦めろ」
乱反射する水面が集まる先に川があるはずだと無言で進む。口を開けば愚痴ばかり出てくるからだ。
「……音が」
「足元で流れてる音とは桁が違うね」
「ああ、川の水量が雪解け水で増えてるんだろう、あまり近づくのは危険だな。この辺りで良いんじゃないか」
……ようやく一息つけた。
だけど、疲労で動けなくなる前に、獣のせいで泥だらけのこの服は何とかしてしまいたい。
「トテ、川を見に行こう」
「危ないって言ったばかりだろうが……⁉︎」
「女の子には色々あるんですー。自分の格好に無頓着なデジーはそこで大人しく置き物にでもなってなさい」
激しく同意。
どうでも良いデジーさんの評価にさえ気になるお年頃なのだ。
「生簀を作って水の流れは遮ろうか。危険なことに変わりはないから」
服を脱いで川の水に浸す。変わる川の色にげんなりしながら、両手で揉むように泥を落とす。
「……さ、寒いです」
「私もー」
「もっと寒そうに言って欲しいんですけど、真っ赤な手に免じて許してあげます」
生地が傷んでしまうのできつく絞ったりなんてことはしない。押すように水を抜き、これ以上軽くなりそうもない服を持ち上げ途方に暮れた。
「「戻りましたー」」
木の枝に濡れた服をぶら下げて、せめて明日の朝までには乾くように祈っておく。滴る水滴の量が、無理だよって言ってるような気がした。
「……トテ、寒いよね。おいでー」
両手を広げて待ってるルクスルの胸に躊躇なく飛び込む。お互いの身体が冷え切っているので、恥ずかしがっている場合ではないと私からも身体を強く押し付けた。
「……お前ら、恥ずかしくねえの?」
言わないで欲しいし、こっちも見ないで欲しい。私たちの下着姿に呆れながらも黙って焚き火の準備をしていれば、お互い平和でいられたのに……。
「これは仕方のないことなんです。汚れた服をいつまでも我慢してまで着たくはありませんから」
「……まさかこの俺がルクスルにまで欲情するとは思わなかったわ」
「正直でよろしい。樹に吊るされるか穴に埋められるか選ばせてあげる」
「これは仕方のないことなんですー! 男の性って奴だ!」
「ルクスル、どうします? 穴の深さに希望はありますか?」
「埋める前提なのか⁉︎ トテ! 俺たち友達⁉︎」
ルクスルにまで変な視線を送っていることを告白する人に、慈悲の心は持ち合わせてないです!
「……大体、お前らがいきなり脱ぎ出したんだ! 俺に罪は無いはずだ!」
「うん、無いよ。我慢出来なかった私たちが悪いのです。ただ、それ以上近づいてきたら命は無いと思え」
「理不尽!」
「……ちらちら見てくるのは、まあ……それくらいなら譲歩してあげましょう。だけど、近づかないくらいなら出来るよね? それとも、こんな格好の私たちに何か用でもあるのかな……?」
「……そりゃあ、これから飯でも作ろうと思ってたし? お前らは寒くて火のそばから動きたくないだろうから? 親切心ゆえに料理は手渡ししてあげようかって――」
「あ、そういう助け合い精神は求めてないので」




