三話 『エル』という世界の常識
影先生は俺たちの方に向かい歩いてきた。
「どうやら、ある程度のことは話せたようだね。医者として――いや、一人の人間として、君たち二人の会話の中に入るのは申し訳ないけれども、少しばかり、話さないといけないことを思い出したんでね。急遽、割り込んでしまったよ」
「そうなんですか? 話さないといけないことっていうのは?」
「君が救った少女について話すんだ」
そう言いながら、影先生は歩みを止めて雛の方を向く。
「確認。名前は恋情敵雛で合ってるかな?」
「はい」
「君は、異世界からきた?」
「いいえ」
「エルの住人?」
「はい」
「産まれてからの、記憶がない?」
「はい」
「――!?」
!? 記憶がない!?
それって、
「雛は……記憶喪失なのか?」
「うん。私、昔の記憶がない。気が付いて、少ししたらあの男――再生者の男に会った」
「やはり、そうなんだね」と、影先生は吃驚もせずに淡々と話を続ける。「雛さんがエルの世界を知っていそうだったのは、輪離さんが来る前から確認済みだった。色々と質問して、それらから推測するに、エピソード記憶のみの消失って感じかな? 知識はあっても、思い出は全て消えてしまった。あってるかな?」
「記憶はないけど、多分そうだと思う」
……思い出のみが消えた。それは、異世界に行くために、記憶障害になるという、ある程度テンプレに沿っているような感覚を抱くが、しかしそれだけが全てではないことはよく知っている。世界が複雑にできているように、この記憶障害というのも、何か複雑なことが発生して現在に到っていることも考えられる。雛はエピソード記憶がないだけで、この世界――エルそのものは知っているようだ。
俺が想像もつかない出来事があったのかもしれない。
その考えはひとまず置いといて、雛は記憶喪失だということを頭に入れておこう。記憶喪失なのだから、様々な常識が抜けているかもしれない。いや、抜けてないとおかしい。それを考慮しながら話すのも大切になってくるだろう。
「ということは、二人とも生まれ育った『街』が、この世界ではないんだね。あ、雛さんはこの世界の可能性が高いけど、どこの『街』で産まれたかは覚えていないってところかな?」
「多分、そう」
「そして輪離くん、君は異世界から来た人間。
それらのことを上の者たちに報告すると、何やら面倒なことになりそうだけど、まあそれが事実なら仕方ないかな。そのように報告しないと、後々面倒だ」
なりやら独り言のようにつらつらと喋っているが、イマイチ何を言っているのか分からない。
「というか輪離くん、君は多分、『街』については知らないよね?」
「知らないですね……」
この世界に来てから、『街』というワードが頻繁に出ているが、その意味は地球のころの街という意味とは、少し異なっているのだとは勘付いていた。
「『街』、というのはね、平たく言えば、条件がそろっている場所に付けられる名前なんだ。条件はいろいろあるから細かくは言わないけど、人口が多く、衣食住が揃っていれば、たいていは王国から認定される。王国というのは、簡単に言えば、『街』を認定するかどうか決定できる機関だ」
影先生の言った言葉を反芻し、自分なりの言葉にまとめる。
つまり『街』というのは、小さな村。そしてそれを束ねる機関が王国。こんなところだろうか。
「そして」と影先生は言葉を紡ぎ、「私たちのいる場所は『エイワーズの街』と呼ばれている。これは覚えていたほうがいい」
つまりこれらの用語は、この世界――エルの世界の常識的な知識、ということか。
そしてこの『街』は『エイワーズの街』。俺はある程度、それらの言葉を自分なりに理解した。理解したが、まだまだ疑問点がある。
「お気遣いありがとうございます、影先生」
「そんなに畏まらなくてもいい。一応言っとくが、私は敬語を使われるのは嫌いではないし、好きでもない。もし、君が無理をしているのなら、自然体が如く、話しかけてほしい」
「……そうですか。ですがお気遣いなく、自分はこれが性に合っているので。
話は変わりますが、影先生、質問があります」
「何かな?」
「その……自分は無一文なんですが、治療費とかって払ったほうがいいんですか?」
見落としていた、現実感ある問題。少女――雛に出会って喜びを感じ、しかし今ようやく現実感が沸き、そんな些細なことが気になっていた。いや、もしかしたら些細じゃないかもしれない。とんでもない額を請求させられる可能性もあるかもしれない。
「あー、そのことね。確かに、治療費は払ってほしいけど、今は払わなくていいよ。君たちはエルの世界のことをまだ知らないだろうし、エルの世界でのお金の稼ぎ方を知らないだろうから、今は払わなくていいよ。ただしね輪離くん、怪我が完治したら、返済するようにしてほしい」
「それで大丈夫なんですか? 大丈夫だとして、返済は分割のほうがよかったりしますか?」
「別に分割じゃなくてもいいし、期限とかも設ける予定はないよ。君たちはいきなり知らない場所にきて、このような事態が起こっているんだ。私もしその立場だったら、そのほうが安心すると思うんだ。だから、別に焦らなくてもいいよ。
ただ、そうだな。君たちは二人とも、ほぼ全快しているけど、二日は体調の経過を見ておきたい。基本的に外出は『エイワーズの街』内なら、どこを散策してもいいが、もしも体調が悪化したら、すぐに病院に戻ってきて欲しい。
あとは、その間に『エイワーズの街』のことをよく知ってほしいかな。そしてどこで働くか決めればいい。そうすれば自然と収入も入るし、衣食住も何とかなる。『エイワーズの街』はそういうふうにできているからね。
働く場所としてのオススメはね――」
このあと、影先生から働く場所としてオススメな場所、そのほか様々なエルの世界の事について話してくれた。