そしたら電車は行ってしまった
麗らかな春の日だ。鳴き始めた鶯に、間の抜けたカラスの声、雲一つ無い透けるような青空の下で彼女は電車を待っていた。膝に乗せた小さなランチバッグに付けられたメタルのキーホルダーが、カチャリと揺られて音を立てた。俺はそれをただぼうっと見ていただけなのだけれど、ひどくその光景に心惹かれて頭から離れなくなってしまった。
「おい」
ゆっくりと、しかし驚いたように彼女が振り返る。何時もは自転車なのに電車なんて珍しいですね、とも言われた。
「寝坊した。お前らの練習時間が早すぎて」
彼女は、一緒だ、と擽ったそうに顔を綻ばせた。朝6時からの早朝練習のことをすっかり忘れ、5時半まで布団の中にいたらしい。
彼女の前髪を煽るそよ風に目を細めると、彼女も同じように目を伏せた。花粉症なんですよ、と少し不機嫌そうに言った。鼻がムズムズして、目が痒くなって大変で、春は好きだけれど嫌い。生憎、彼女のその気持ちはわからない。俺は至って普通で、花粉症とは縁がない。軽い喘息はあるけれど、走ったってなんてことない、悲しいことに。
「辛い?」
うーん、そう聞かれるとあんまり。と困ったように首を傾げる。実際彼女は困っていないのだ。この質問の答えは、多分誰が聞いても同じなのだから。
ファン、と列車の軽い汽笛が聞こえ、踏切がカンカンと降り始めた。電車来ましたね、とふわり立ち上がった彼女の揺れるスカート。耳にかけた後れ毛の柔らかそうな色。少し小さめの唇、ローファーに伸びる細い足首。
「俺は好き」
何が?
彼女は不思議そうに列車に乗り込む。
「春が」
俺も列車に乗る。
あー、そう。少し残念そうに彼女は笑った。振られたこと知ってるのかと思った、と苦虫を噛み潰したように顔を顰める。それでも彼女の心から出ていかないのはその男が彼女の幼馴染だからだろう。聞いた話では、恋愛に興味が無い、とあっさり言われたそうだ。
「嘘つきですねぇ先生は」
俺は彼女に酷いアドバイスをした。今告白しなければ、もしかしたらあいつがほかの女に取られるかもしれない、今なら行けるかもと彼女を急かした。そして彼女は俺に釣られて、あっさり振られた。泣いたのか、泣いてはいないのか、それは見ていないからわからないけど。
私より頭一つ高い背、飛び跳ねた寝癖のある髪、通り過ぎるたび香る柔軟剤と彼の匂い。不器用だけど、優しいやつだった。泣いたところを見たことなかった。私以外の友達は、1度だけ見たことがあると言っていた。
なんて羨ましいのだろう。小学校から一緒に過ごして早11年、なぜ私の前では弱くなってくれなかったのだろう。
「あいつは強くて脆い奴だ。お前が優しすぎたから、甘えられないと思ったんじゃないか?」
「そんな気遣い出来るやつでしたっけ。私には、まだまだ子供に見えました」
そこがいけない、と先生は眉をひそめた。男は誰だって頼られたい側だからだと言った。女性の方が精神的に大人びるのは至って普通で、その視点で見れば男が子供っぽいのも当然のことなのだと。急に成長したように見えるのも、結局は女子がいらぬ母性を働かせてしまったからだ、とまた先生は呟いた。
「彼女と上手くいってないんですか?」
関係ないだろう。と怒ったげに返されて失言に気づく。またやってしまった。これで機嫌を損ねたのは何度目だろう。先生も、色々あるのだ。普段部活のことで悩みを聞いてもらっている分、何か力になりたいが生憎そんなに出来た生徒ではない。そればかりか振られたことを先生のせいにしたい、と心のどこかで思ってしまっている。最低だ。
終点駅が近づく。先生は駅から家が近い。私ここからまた乗り換えて最寄り駅まで行かなければならない。
「さようなら」
「ばいばい」
およそ先生とは思えない軽い挨拶のあと、少しくすんだ革靴とともに帰っていった先生に、そのあとも私が謝ることは出来なかった。
「今日も電車ですか」
悪いのか、と言えばそうじゃないと静かに言われた。
「あの自転車、かっこいいですよね。ロードバイク」
少し声に残念そうな色が混じるのを聞いて、見たかったのかと気づく。確か彼女はロードバイクに詳しかった筈だ。父親の影響で知り始めた世界に興味津々、その近くにたまたま同じ趣味の顧問が居た。
「あの蛍光グリーンがブランドのイメージカラーですよね。先生わかってます」
そして俺は、同じ趣味の教え子を見つけた。音楽の趣味もスポーツの趣味も本の趣味も、何もかもが似通った理想の...。
「私も自転車欲しいな。大学合格したら、買ってもらおうかな」
今年、この学年は3年生。部活を引退する年だ。そして彼女のとっている授業では、俺の担当の社会がない。短的に言えば、会える時間が極端に減る。部活でも学校でも、放課後も会えない。
「どうしたんですか」
気がつけば、抱き締めていた。何故だろうか。駅に舞い散る桜に攫われそうに見えたのか、それとも単に彼女の事が好きなのか。
実は恋人とは先日別れたばかりなんだ。他に好きな人ができたから。
そう告げれば、彼女の鼓動が早くなる。嗚呼なんてダメな人間なのだろう。弱ったところを見せられて、そこに魅せられて、あっさり心を許してしまうなんて。
「いいんですか」
なにが、なんて聞けなかった。震えた声に、甘えたくなった。もしかしたら俺は退職を余儀なくされるかもしれない。
良くない。芯のある声に彼女の息が自嘲気味に吐かれた。
「私のどこがいいんですか。振られたことを使って、先生に甘えているだけの馬鹿な私のどこが」
頼ってくれたから。なんて単純な理由だとしたら、きっと彼女は俺を笑う。それでもいいじゃないか。
匂い立つほど美しい、桜のような恋だった。