第十部 罪と罰
うっすらと湿り気のある空気が狭い部屋を満たしている。
いや、部屋と呼ぶには少し無機質に過ぎるかもしれない。
試験的な防空壕、という名目で急造された空間には、備蓄食の箱の代わりにランプを点滅させている大人の背丈ほどもある機械や、毛布の山の代わりに無造作に積み上げられた書類が極限まで詰め込まれていた。
それらを照らす蛍光灯の白々とした灯りまでもが、どこか息苦しさを帯びている。
「現在の状況はどうなっている?」
「全観測地点における磁気の乱れは正常値まで落ち着きました」
まるで軍の司令部かのような張り詰めた雰囲気ではあるが、ここは大聖堂の地下深くの研究室だ。
忙し気に行き来する者達も、皆純白の司祭服を纏っている。
ここにいる全員が、庭師だった。
「予測よりも半日ほど遅れているな」
「はい、ゼロポイントへの接触によって生じた特異点発生が原因です」
古びたタペストリーを背に座る男の司祭服だけが、唯一紅い。
出力されたばかりの報告書を『棟梁』から受け取るその右手には、指輪が嵌められている。
「計画立案当初より外部からの侵入は想定はされてはいましたが……正直を申しますと、新たな磁気異常を引き起こすほどの『力』を持つ魔女などもう……」
「しかし、実際に少なくとも二系統の魔障がゼロポイントと同地点で観測されているのだろう? ならば他に魔女がいたのだ……特異点を生じさせるだけの『力』を持った魔女が」
真紅の司祭服を纏った男は、同意でも求めるかのように背後のタペストリーに目を向ける。
金糸と銀糸がふんだんに使われた豪奢なタペストリーに描かれているのは、青い大輪の薔薇----。
「中庭の状況は?」
「上空のオーロラは消滅、封印の回復を確認しました」
法王は目を閉じ、深く息を吸った。
ほんの一瞬、夏草と夜露の匂いが鼻先を掠めた気がした。
舌の先にドクゼリの苦みが甦る。
「……なりそこないの魔女は、あるべき場所に戻ったようだ」
安堵。
落胆。
その二つの感情が、ない交ぜになった苦み----。
込み上げるような懐かしさが魔女の帰還を告げている。
「ではすぐに医療班を向かわせます」
目を開ければ、そこに立っているのは魔女などではない。
子供の頃から親しみ続けて来たインクの匂いと香油の匂いに加えて、熱を帯びた鉄の匂いと、ゴムの微かな匂いが再び小さな地下室へと男の意識を引き戻す。
血の匂いなどなくともここは戦場なのだ。
「……ああ、それと、回収班は全員撤収させていいだろう」
「しかし、始まりの魔女は、いえその座標はベルリン地下から全く動いていません……撤収というのは……」
部下が向ける非礼にならない程度の怪訝さを、男は首を振って受け流す。
「アンソニーはどうなった? ユダの鍵は?」
「……ユダの鍵は、消えました」
その言葉が意味するものは、限りなく重い。
だがその重みを背負えるのは、ここには一人を除いて誰もいない。
「マラキの預言と合致しています」
「……つまり、そういう事だ」
法王庁に残った魔女のうちの一人は戻った。
もう一人は放棄するしかない。
そしてこの状況は、既に確定している。
大型計算機の弾き出した結果とも整合している。
「回収はしばらくは難しいだろう。しかし、何年……あるいは何十年後かに必ず回収する……それが私の次の代か、あるいはその次の代かは分からないが……」
予感。
確信。
未来の悲劇。
押し寄せるその予兆を感じ取りながらも、法王ピウス十二世は新たな指令を下す。
「……それでは、現時刻を以て回収作戦は終了、ベルリンにて当該座標の定点観測を開始させます」
そうだ、それでいい。
この判断は間違っていない----。
運命を変えようとした者が、今更その罪の大きさに怯えてどうしようというのだ?
たった今羊皮紙にサインを記したばかりの指が、幽かに震えている。
それを嘲笑うかのように、漁師の指輪は鈍い輝きを放っていた----。




