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ワルプルギスの夜を迎える前に。

 突然私の身体は宙に浮き、そして床に叩き付けられた。

 まるで、見えない両手に渾身の力で突き飛ばされたかのようだった。


「……ッ!?」


 濁流のような勢いで流れ込んで来ていたモルガナの『力』が、そこでぶつりと途絶えた。


 そして、私は現実の世界へと引き戻される。


(今のが、モルガナの『世界』……?)


 正気を取り戻せたという安堵と熱が引いた後のような虚脱感の中で、私は何度も瞬きした。


(……あのままだったら、きっと戻れなかった)


 大丈夫、私は----。


 私は、『私』に戻っていた。

 どこまでも『私』だった。


 私の脳内で乱舞していた黒い蝶は、その鱗粉すらも全て消え失せていた。


 黒い極彩色の悪夢から私は放り出されたのだ。

 恐らくは、その悪夢を支配する女王モルガナ自身の手で。


(どうして? いや……そんな事は後で考えればいい……)


 私にはやるべき事がある。


 やるべき事があった。


 やるべき事があった----はずだ。


『魔女のスープ』を体内に入れる事で数百数千の『魔女』から『力』を取り込み、無尽蔵に近い『力』を得た円環の魔女と混沌の魔女----その二人を灰にするためにモルガナは文字通り死力を尽くしている。


 そして、私に自分の『世界』を見せ、あまつさえ自らの『力』を私に注いだ。


 もう、はじまりの魔女に残っている『力』は残り少ない。

 

(今なら、殺せる)


 私は立ち上がろうとした。


 だが、私の身体は大きく揺らぎ、平衡を保つ事ができない。

 まるで綱を斧で断ち切られた小舟のように。


「……きゃ……殺さなきゃ……」


 呟きながら大剣を支えに立ったものの、彼女への殺意は、私の中から消え去っていた。


(……?)


 殺意だけではない。


(……モルガナはそこにいるのに……どうして? 彼女から何も感じない……!?)


 モルガナが無言のまま私を見た。

 だが、もうその意思はこれまでのように私に伝わる事はない。


(……すぐそこにいるのに、こんなにも遠い)


 私とモルガナのありとあらゆる繋がりは、元からなかったかのように----絶たれていた。


 確かに『あった』のだという記憶だけが、辛うじて私の中に残っている。

 その僅かな記憶すら砂時計の砂のようにさらさらと流れて、何処かへ消えようとしている。


 記憶とはこんなにも不確かで脆いものだったのだろうか。


 違う。

 記憶じゃなくて、私そのものが----。


 ああ、これほどまでにモルガナは私という存在に輪郭を与えてくれたのだ。


 憎しみという名前の執着で己を保ってきたのは、私の方だ。


 なのに、私は----貴女を知らない。


 何も知らない。

 何一つ知らない。


「……モルガナ……貴女は、一体何者なの?」


 二人の魔女の悲鳴と絶叫が延々と繰り返される中、私とモルガナは無言で見詰め合う。

 こんなに目を合わせたのは初めてかもしれない、そう思うほどに長い時間に思えた。


「今ので分かったでしょ? あの狂気が私……あの悪意が、私なの」


 モルガナが答える。

 まるで自分に言い聞かせるかのように。


 一言ずつ、確かめるかのように。


「この姿が『はじまりの魔女』の末路であり、宿命よ」


 酸鼻を極める魔女達の断末魔の中で聞くその声は、朝の湖のように、あまりにも静かで澄んでいた。


 黒い魔女は私に手を差し伸べた。


「……だから貴女だけはこうならないで欲しかった」


 意味が、よく分からない。

 何を言われているのか、理解できない。


 そして、同時に泣きたくなる程の懐かしさを私は覚える。


(……違う……こんな感情は、おかしい……)


 私は立ち上がる。

 なのに、そこからどうすればいいのか分からない。


(……私達姉弟の仇なのに、どうしてこんなに……このひとの声は切なく聞こえるのだろう……?)


「この先は、貴女はもう見てはいけない……」


 いや。

 理解も思考も必要ない。


 私の中で、私の声が繰り返している。


(殺すのよ、アイリス)


 殺さなければ、私のこれまでの日々は無意味なものになる。

 殺さなければ、これまでに私の流した血は無駄なものになる。


(……殺すの)


「だけど、いつかは思い出さなければならない日が来るでしょう」


 分かっているのに、モルガナから目が離せない。

 殺せない。


「もしも再び会えたならば、その時に、私を殺して……」


 あれほど強く誓ったはずなのに、私はこのひとを殺せない----。


「アイリス、行きなさい!」


 慟哭とすらとれる声で、私の女主人は私に命じる。


「早く!!」


 そして、まるでカーテンが閉まるかのように、緑色の光を放つ結界が三人の魔女の姿を覆い隠す。

 もう悲鳴も絶叫も何も聞こえない。


 私には、あの結界を破れない。


(……結局、殺せなかった)


 部屋の隅に倒れていたアンソニーは、まだ僅かに息がある。


「アイリスか? すまんな、もう何も見えないんだ」

「私はまだ見える。ここを出るわよ」


 どうして自分がまだモルガナの言葉に従っているのか、自分でも分からない。

 ただ、不思議なまでに頭は切り替わっていた。


「……ここにいたら巻き込まれて死ぬわ」

「そうか……」


 結界の中で、三人の魔女がその命を削っている。

 モルガナ本人が対消滅の道を選んだという確信が、私の身体と口を動かしていた。


「だがあのクソ狭い階段は、俺にはちょっとばかりキツいな……どっちにしろ、お前一人で逃げろ」


 アンソニーの呂律が次第に怪しくなって来た。


「外は、8月……だから回収部隊がお前を……あの素敵な中庭まで連れ帰ってくれる、はず……だ……」


 時折、喉に何かが詰まったような咳払いが交じる。


「アンソニー、血が!」


 口から流れ出した血が情報将校の制服を赤黒く染めていく。

 真っ赤に充血した目から、赤い涙が一筋落ちる。


「脳がやられてるんだ……あれだけの魔女が枷なしで『力』を開放したんだぜ? 普通の人間なら、その時点でミンチになってる」


 そうだ、確かに普通の人間なら既にこと切れているはずだ。


「アンソニー……貴方は、一体何者なの?」


 返事の代わりにアンソニーは、再び、ごぽりと血を吐いた。

 赤と言うよりも黒に近い血の色----何度も見て来た死の徴。


(内臓もやられてるのか……)


 少し迷ったが、修道服のポケットの奥から煙草を一本出して咥えさせた。


 こじ開けた唇には、力が残っていない。

 落とす前に火を点けてやろうと男の制服を探る。


「……俺はパチェリの、そうだな……半身、みたいなものだ……今日までのお前と、モルガナのような関係だと思ってくれれば……いい……」

「人間なのに?」


 人間と魔女、その境界は何処なのだろう?


「詳しくは分からないが……俺達のような人間は、青い血を持つ血筋の中に時折現れるらしい」


 やっとマッチが見つかった。


「……あれ?」


 が、なかなか火が点かない。


「お前、『力』がないうえにマッチ一つ扱えないって、もう魔女以前に不器用過ぎるだろ……寄越せ」


 死にかけの男は、震える手でマッチを擦り煙草に火を付ける。


「……で、これ、どうしたんだ?」

「修道服のポケットに入ってた」


 そうか、と男は言い、終油のつもりかと一人で乾いた笑いを漏らした。


「……奴は、ヒトラーと戦わなかった法王として歴史に残るんだろうな」


 だが、と言いかけてまた血を吐く。 

 煙草の芳香を血の匂いが掻き消す。


「全ては覚悟のうえ……だ……ろう……俺の事も含めて……」


 最後まで聞く気はなかった。

 私は吸いかけの煙草を取り、投げ捨てる。


「そこまで彼の事を理解しているというのなら、死ぬまで側にいてやりなさいよ」

「お、おい……お前何する気だ……?」


 唖然とした様子の男を、私は渾身の力で背負う。

 背負うとは言っても、上半身しか背負えないが、それでも引き摺るようにして辛うじて移動はできる。


(こんな使い方してごめんね)


 流石に私の剣だ。

 杖代わりにしても刃こぼれ一つしていない。

 

「あのバカでかい装置を階段から入れたとは思えない。奥に昇降機があるはずよ……さっきの鍵を渡して」


 急いでこの空間から出さなければ、対消滅の前にこの男は死ぬだろう。

 そんな事は許されない。


「外が本当に『正しい8月』であれば、貴方のこの傷も初めから存在しなかった事になるはずよ」


 死なせやしない。

 せいぜい長生きして、私達魔女を道具として使ってきた報いを受ければいいのだ。


「正気か!? 聖遺物に触れた魔女は無事じゃ済まないんだぞ!」

「失礼ね……私、今までの人生で一番正気よ」


 言っている間にも、背中に当たる男の体温が下がっていくのが分かる。


「……あった」


 霞んだ視界の中で、私は壁と同化していた無機質な扉を見付ける。

 案の定、ここも鍵穴式だ。


「あとは、この先にまともに動く昇降機があるよう祈っててね」

「……やめろ! 死ぬ気か!?」


 喚く男を床に仰向けに寝かせ、軍服のボタンを外すと、私は銀色の鍵の下がった鎖を首から引き千切った。

 所在なさげに揺れているユダの鍵を手に提げて、私は後ろを振り返る。


 私にはもう、モルガナの結界が微かにしか見えない。


 何の感慨も湧かない----はずなのに、私は自分の頬が濡れている事に気付く。


「おい! 鍵は俺が開ける! だからそれには触るな!」

「冗談でしょ、貴方をまた起こして手を握って鍵穴まで誘導とかもう無理よ……」


 私はアンソニーをドアの前まで引き摺り、その鍵穴にユダの鍵を差し込んだ。

 鍵が伝えて来たのは、僅かな温もりを残した銀の冷たさだけだった。


「はッ……さすがはイスカリオテのユダ、その名に恥じないわね。魔女の意のままにに使われるとは」


 扉が開く。

 中は空っぽで、二つの押しボタンがあるだけだ。


 私は渾身の力を込めてアンソニーを昇降機の中に蹴り込んだ。


「パチェリ! 聞こえてるんでしょ!? 貴方は初めからこうなる事が分かっていたのね!」


 辛うじて読める上向きの矢印のボタンを探り当てながら、私は叫ぶ。


「貴方はわざとあのバカ女を泳がせてホルダを兵器に仕立てさせ、そして『力』を手に入れさせて時間の流れを歪めるのを待っていた! ヒトラーに最終兵器を使わせるために!」


 あのパチェリにはアンソニーを通じて間違いなく私の声が届いている。

 

「貴方はモルガナが最後まで取り戻せなかった『力』を取り戻して完全体になるように、そのためだけに最後までヒトラーを無力化しなかった!」


 今の私は理解していた。


 本当の神とは一体誰なのかを。

 どんな姿をしているのかを。


 そして、どんな声をしているのかを----。


「貴方は神が見たい一心で、モルガナのNRVNQSRの拘束を解いたのよ!! 法王の名の下にね!」


 ああ、なんという喜劇だろう。

 助けられたはずの幾多の命を捧げてまで、法王ピウス十二世は己の思い描いていた神の実在を証明したのだ。


 そして、その神はもうすぐこの地上から消える----。


「私は貴方を呪う! 魔女でもなく、人でもなく、『法王の剣』として貴方を呪う!!」


 ボタンを押す指先に力を籠め、私は叫ぶ。


「ヒトラーの法王と呼ばれ、死ぬまで憎まれ、蔑まれるように! そしてその亡骸が貴方の見た神と同じ色になるまで腐り果てるように!!」


 扉が蝸牛のように、のろのろと閉まり始めた。


「お、おい、お前も乗ったんだよな……?」

「気が変わったの。魔女は8月よりも4月の方が好きなのよ……」


 絶句したまま、それでも何かを言おうとしている血塗れのスイス兵に、私は笑顔で手を振る。

 見えていないと分かっていても。


「ここは永遠の4月29日……ワルプルギスの夜の前夜祭を楽しむなら、ここ以上に相応しい場所はないと思わない……?」


 昇降機の扉が閉まった。


 そして----静かな地獄に、魔女だけが残った。

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