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死の二重奏

 牡牛の腹の下で、いつの間にか薪がチロチロと青白く燃えていた。


「ホルダ……ぁッ、あッ、あああッ、う……歌いなさいッ! 早くッ、うた……ぐはぁッ!?」

「……ッ、あ、あぁ……ッ、ああ……あ……」


 私は耳を疑った。

 聞こえる。


 歌が、聞こえる。


 最初は聞き間違いかと思った。


 だが計画は発動し、彼女の『力』を封じていた口輪はファラリスの牡牛の中で解除されている。

歌えるのだ----理論的には。


「あぁあ……あぁ……ッ、あ、あうぅッ、ぐッ……!」


 これまで聞いた不思議な事のない旋律が、途切れ途切れにだが牡牛の頭部から漏れ聞こえてくる。

 信じられない事に、ホルダは灼熱の牡牛の中で懸命に歌おうとしていた。


 しかしそれはもうホルダの声ではない。


 地底の奥から吹き上がる風のような、瀕死の獣の唸り声のような、低く濁った声だった。

 それでも、それは確かに歌だった。


「ぅ、あぁ……あ……ああぁ……」


 任務に忠実故なのか、それとも歌う事への魔女としての執着故なのか。

 分からない。


 ただ、初めて聞いたはずのその旋律は、ほんの一瞬、私の頭の片隅で何かと共鳴した。


(この歌、私は知っている……?)

 

 よく聞き取れなくてもそれは物悲しく、胸を抉るような哀切を帯びた旋律だった。

 しかしそれも束の間、やがて----それは悲鳴へと塗り替えられていく。 


「ああ……あぁ……ッ! あひッ!? あああ!! あ、熱いッ!!熱い熱い……ッ!!」

 

 炎はもう牡牛の腹を赤く染めている。

 多分水をかけたら瞬間的に蒸発しそうなくらいの温度になっているはずだ。


「ああああッ、主任ッ! こ、これいじょ……はッ、う、歌えないですッ! こんな熱くて……ッ! 壁に身体が張り付いて……ッ、痛いッ!!熱いッ!!掌が剥がせないのッ! 舌が乾いて、動かな……!!」


「あらら、混沌の魔女ならせめてもう少しは苦痛に耐えて歌う『力』があるかと思ったのだけれど、所詮はこの程度だったのね」

 

 発せられたモルガナの声は失望なのか、それとも己の歌を無様にしか歌えない魔女への嘲笑なのか。


「ひっ……ひっ……」


 聞いてるこちらの呼吸まで苦しくなってくる。

 咽喉が塞がれたかのような錯覚を覚えて、私は喘いだ。


「あづいあづいあづいッ! 主任ごめんなさい!ごめんなざいぃぃぃッ! もうッ、腕までッ、炭になっでるんでず……ッ!!」


 何を訴えているのか分からないくらい、牡牛の中から聞こえるその声は、人の発するものとは思えなかった。


「あははははッ! もう指が全部落ちちゃったッ! あはッ! あはははッ!」

「はぁッ、いいから歌いなさいよッ! 熱かろうが何だろうが消し炭になるまで歌うのよ! 私の命令がぐ……ッ、はぁッ! 木っ端魔女のクセにこの私、アーネンエルベ最高幹部の命令が聞けないっていうのッ……!!」


 苦痛のあまり発狂している少女に向かって、女主任は吠えるように命じる。

 その声にも既に狂気がかなり混ざっていたが。


「そんなにホルダに歌わせたかったら、まずは自分でお手本を示してあげないとね」


 二人のやり取りに若干倦んだのか、モルガナはローゼン・ガルテンを指す。


「時間の魔女の歌も聞いてみたいわ、私」

「んはぁッ、そんなの、し、知らないわよ! 私には歌の『力』がないのは知ってるでしょ!?」


 それなら即興で許してあげる、とはじまりの魔女はニコリと微笑む。


 バンッ!

 

 突然アイゼルネ・ユングフラウの扉がひとりでに閉じた。


「ぎゃあああああああああああああああああああああああああッ!!」

 

 その叫びはさっきの比ではなかった。


 それはそうだろう。

 顔以外に無数の針が同時に突き立てられたのだから。


「ああッ! ぐふぅッ! おねがいじまず、これッ、痛いのぉッ!あげてぇ!!」

「あづいよぉッ! おねがいじばす! あけて、あッ、あけてくださ……」


 二人の魔女達の苦痛の絶叫が止む事無く木霊する。


 耳を塞ぎたいのを堪えて、私はアイゼルネ・ユングフラウの足元を見た。

 既にそこには赤い水溜りができつつあった。


「あぎゃあッ! ひぃぃぃッ!!」


 そんな高音が出せるのかというほどの悲鳴が、部屋の空気を震わせる。


 なんとかして少しでも楽になろうと中でもがけばもがくほど、針は肉の奥深くに喰い込んでいく。

 そして流された血は幾つもの筋となり、合流し、生き物のように床の上を広がっていく。


「まぁ、歌う事も出来ないのね。ならばもう用はないわ……と言いたいところだけど、別の方法でなら楽しませてくれるはずよね」

「んあッ、な、なに……ッ! これ以上はもう……し、しんじゃう……」


 アイゼルネ・ユングフラウの扉が開いた時、私は悲鳴を上げそうになるのを堪えた。


 女主任ローゼン・ガルテンは、青白い顔で立ったまま半分気絶していた。

 皮肉にもその白衣の色は、彼女自身の鮮血で枢機卿服と同じ色に変わっていた。


 ぽたり。

 ぽたり。


 かつては白衣だった襤褸服から紅い滴が絶え間なく落ちている。


「時間を巻き戻す『力』、少し戻しておいてあげたから存分に使ってね。と言っても自分の意思じゃどうにもならないとは思うけど」

「……じ、時間を、もどす……ちか……ら……?」


 その言葉と同時に、床の血がしゅるしゅるとアイゼルネ・ユングフラウの中へと吸い込まれていく。

 女主任の身体に空いた穴が消え、白衣の色が元に戻っていく。


「え、元に、戻ってる……?」


 女主任は自分の身体を見下して、恐怖と苦痛で混乱した頭で何が起きたかを懸命に理解しようとしている。


「あ、熱くない……腕も、指も戻ってる……?」


 当惑したホルダの声が微かに聞こえた。


 ファラリスの牡牛の下で燃えていた薪の火は消え、牡牛はただの冷たい置物に戻っている。


 だがそれが始まりの魔女の慈悲でも許しでも何でもないという事は、次の瞬間にはもう部屋の全員が理解していた。


「さあ、ローゼン・ガルテンとその牝犬、良くお聞きなさい」


 モルガナは最上の笑みを二人に向けた。


「この部屋以外の時間は全て元の時間軸に統合されたわ。でも、ここだけがまだ4月29日、貴女が生じさせた永遠の4月29日なの……だから貴女達がその身をもってここの時間を8月に戻すのよ」

「そ、そんなの無理よ! 私達にそんな技術は……」


 モルガナは灰色の天井を指す。


「ローゼン・ガルテン、貴女は時間を過剰に繰り返し続ける事で星辰の位置まで狂わせた。だからそれを戻すまで今度は貴方とホルダが灰になるまで同じ時間を繰り返し、狂わせた時の流れを正常に近付ける」

「灰に、なるまで……?」


 絶望で掠れた声が女主任の声から微かに聞こえる。


「魔女とは、そういう存在ものなの」


 そう言ったモルガナは、短く何かを唱えた。


 そこから先はもう地獄としか言いようがなかった。

 

 アイゼルネ・ユングフラウの中のローゼン・ガルテンは気絶する暇も与えられないまま全身に針を刺され、血を流し、元に戻され、そしてまた血染めの姿で絶叫する。


 最初は血の一滴もなかった顔が、今は目と鼻と口からの血、そして涙でぐしゃぐしゃに汚れている。

 蓋が閉まるたびに噴き上がる血飛沫が空気を染めていく。


 ホルダは更に悲惨だった。


 休む間もなく歌う事を強要され、身体中の服と皮膚が溶けて牡牛の内部に張り付いたまま炭化しても失神の寸前で最初の状態に戻される。

 そしてまた青い炎が牡牛とその中の混沌の魔女を焼く。


 阿鼻叫喚と言う言葉ですら生ぬるかった。


「殺して! もうころしてよぉぉぉぉぉ!!」

「あづいあづいあづい! もうッ、おねがい……れすッ! 骨がっ、骨がとけてるの……!」


 繰り返し繰り返し魔女達は殺され、生き返り、そしてまた寸分の時間も与えられずに殺される。


 これに比べれば魔女裁判などあまりにも優しかった。

 人間が魔女に対して発揮する残虐性など、猫が鼠をいたぶる程度の好奇心と多少の加虐心と変わらない。


 だが、これは純粋な悪意でしかなかった。

 長い時間をかけて凝縮され、研ぎ澄まされた完璧な黒。


 悪意の結晶。


「よく見なさい。私の今のこの姿、そして行いこそが魔女の成れの果てなのよ」


 突然モルガナにそう言われて、始め私は自分に言われていると理解できなかった。

 それほどまでにその声は澄み、星の光のような静けさに満ちていた。


「だからもう、ここで起きた事は全て忘れなさい」

「え?」

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― 新着の感想 ―
[一言]  もだえ苦しむところの描写がものすごく質が高くて震えながら読ませていただきました。これからも楽しみに読ませていただきます。
2022/11/25 12:06 退会済み
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