邪悪
ファラリスの牡牛----。
唖然としながらも私はその威容から目を離せないでいた。
勿論実物など見た事はない。
ただ、その構造や使用目的は父の書斎の書物で良く知っている----そう、ファラリスの牡牛とは、世界で最も美しく、そして残虐だと伝えられている処刑器具なのだ。
伝えられるところによれば、ファラリスの雄牛とは、シチリア島アグリジェントの僭主であったファラリスの求めに応じ、ペリロスという名の真鍮鋳物師が古代ギリシアのアテナイで設計したという。
この牡牛は中が空洞で、その胴体には人間を入れるための扉が付いている。
死を宣告された者は扉から牡牛の中に入れられ、そしてその下で薪に火が点けられる。
真鍮製の牡牛は、その色を熱によって輝く黄金色に変わるまで熱せられる。
無論その熱さは尋常ではない。
中の犠牲者は、何とかして少しでも熱くない部分を求めて牡牛の中を転げ回り、その振動で牡牛はまるで生きているかのように上下に揺れ動いたそうだ。
だが、本当に残虐で恐ろしいのはここから先なのだ。
鋳物師ペリロスは、雄牛の頭部を複雑な筒と栓を使っておぞましい楽器に仕立てていた。
そう、それは人の苦悶の声を奏でる悪夢のような楽器。
熱で苦悶する犠牲者は、少しでも息をしようと胴体にまで伸びた筒に口を当てる。
その甲高い叫び声は牡牛の頭部で変換されて、人間のそれではなく、まるで本物の牡牛の唸り声のように恐ろしげに周囲に響き渡るのだという。
時間をかけて高温で焼き尽くされた犠牲者の煙は芳香の雲として立ち上り、残された骨は宝石のように輝いたとも言われている。
皮肉な事に、その最初の犠牲者は、効果を試すよう騙されて中に入れられたペリロスであった。
ただし、ファラリスの牡牛の実物は存在していない。
今ここに現れた一頭以外は----。
「ヒトラーもアーネンエルベも、この戦争ですら、お前達のような魔女にとっては新しい世界とやらの簒奪の手段に過ぎなかったという訳だ」
モルガナが静かに呟く。
「私とした事が、少々迂闊だったな」
「そうね、貴女はただ『はじまりの魔女』と言うだけ、歳を取っただけの時代遅れの魔女……今や科学も知識は日々進化してるのよ」
しかし、どんなに強がっても、上擦った女主任の声はこの世大な拷問装置の前では滑稽にしか聞こえない。
形成は完全に逆転していた。
余りにも自然に。
進化、か。
私の耳にはモルガナの声が微かに聞こえた。
その声はどこか悲しげだった。
(そういえば、モルガナはどうして『はじまりの魔女』なんだろう……?)
魔女狩りで法王庁の地下に連れて来られて来たのは、モルガナが最初ではない。
魔女達はそのずっと前からその存在を知られ、恐れられ、囚われては灰にされるか法王庁の生ける武器として使われて来た。
(……そういえば疑問に思った事がなかった)
私は気付く。
色々な事に。
そしてそれら全ての事が、急速に一つの答えに収斂していくのを感じる。
だが、それも途中までだった。
私の思考は千切られるようにして途切れる。
「さあ簒奪者達よ、お前達に最も相応しい玉座を私が与えよう」
その言葉に、背筋が氷水でも流し込まれたかのように一瞬で冷たくなった。
モルガナのこれほどまでに静かな怒気を含んだ声を聞いたのは、今日が初めてだ。
しかし、惨劇の予感に身動きが取れない私を従えたモルガナは、声とは裏腹の満面の笑みをその美貌に咲かせたままだ。
まるで親友に心からの贈り物を渡す少女のような、そう、咲いたばかりの薔薇のような笑みを----。
「さぁ、簒奪者どもよ、己に相応しい玉座を存分に味わうがよい」




