獣の世界
空虚な目---?
いや違う。
これは、己の欲望のみに忠実な、ただ純粋な、あまりにも純粋な目だ。
歌うためだけに生まれて来た少女。
他の全てを犠牲にしても、生まれてきた時から歌う事を定められて来た少女。
無辜の人間の命を糧にしても、歌う事を選ぶ運命の少女。
歌は少女と共にあり、少女は歌そのものだった。
なのに、最も大事に伝えられてきた歌を口にする事だけは固く禁じられて来た少女----。
「……貴女は」
そう問いかけ、私は少女の名前を知らない事に今更ながらに気付く。
私の遠い遠い子孫である名も知らぬ少女が、私を見知らぬ他人として見ている。
彼女の目に私はどう映っているのだろうか?
それでもなお、したり顔の女主任の顔も、別にどうとも思わなかった。
私は、誰に何を思われていても、どうすることもできないなりそこないの魔女なのだから。
何も期待されず。
何もできず。
何も変えられない。
ただ、全ての事態を目に焼き付けて来ただけの----死ねないだけの存在。
「時間もないようだからそろそろ始めましょうか……本当に正しい私達魔女のための世界の幕開けを」
「くだらない! 貴女だけの理想の世界は、皆の欲している世界なんかじゃない! 同じ魔女と言うだけで勝手に仲間にしないでよ!」
ジョリーナは、ふふふと笑った。
「まさかあんなに憎んでいた人間を心配しているの? 今更仲間意識が芽生えちゃった?」
「そういう事じゃない! こんな結末はッ、私は望んでいない……!」
私は人間を憎んでいる。
私と愛しい弟を殺した人間を憎んでいる。
そして私を魔女にしたモルガナも憎んでいる。
その全ての決着を付けるためだけに、なりそこないと誹られながら生き永らえて来た。
なのに、それをこの女はただ自分の私怨を----。
「800年も生きているにしては、ずいぶんとお子ちゃまなのね」
思わず気色ばむ私に、女主任は唇の前に人差し指を立てて見せる。
「私はね、貴女や法王庁や、アーネンエルベよりももっと大きな絵を描いているの」
「夢……?」
まさかこんな血生臭い部屋で、そんな科白を聞かされるとは思っていなかった。
「これから私とこの子が作る新しい世界には、正義も悪もない」
彼女の目は、床の血とは対照的に水のように澄んでいた。
「ただ『力』を持った誰もが己の力を隠さずに、好きに使い、誰からも責められる事はない……そんな世界をこれから私が作るの」
「……それは、結局は獣の世界よ」
理想論に興味はない。
彼女の理想と私の理想は、何処までも相いれない。
裏を返せば『力』のない者はどう生きればよいのか。
というよりも、この『混沌の魔女』の歌を聞いた者は『力』を持つ者以外はみな死ぬか良くて廃人だ。
生き残った者だけが生を謳歌できる世界は、羊達の屍の上に創られた狼の世界だ。
(それは私の欲した世界じゃない! それにモルガナの望んだ世界でもないはず……!)
羊を食い尽くした狼達が争いを始めれば----最後は荒涼とした大地しか残らない。
「法王庁の負け犬の遠吠えはそれで終わり?」
女主任は、アイゼルネ・ユングフラウの起動キーを渾身の力で差し込んだ。
「なら、こんな茶番ももう終わりよ! 力なき者は死になさい!」
「……やれやれ、せっかちなお嬢さんはモテないぜ」
「アンソニー!?」
そこには先ほどまで軽口を叩いていた男はいなかった。
ひたすら暗い怨念と狂気と呪詛を見に纏った見知らぬ男が、そこにいた。
「本当の勝負は、これからなんだよ」
静かに手袋を外し、中指から指輪を抜き取る。
「そ、その指輪はッ……!?」
「驚く事はないだろ? もとはアンタん所の指輪だ……まさか本物を見た事ないのか?」
そう言いながら宝石の部分を台座から外す。
紅い宝石は微細な蝶番によって本体と蓋に分かれている。
「そ、そういう事じゃないわよッ! どうして『それ』が今ここに……アンタの手にあるのよッ!?」
「だからスイス兵は何処にでもいるって言ったろ? あ、アンタには言ってなかったか」
それは確かに法王の象徴である漁師の指輪そっくりだった。
違うのはその色。
赤く熟した柘榴のような、吸い込まれそうな紅い意志が赤い照明の中でもひときわ煌めいている。
この色は祝福なのか。
それとも、呪いなのか----。
「アイリス、これの中身をモルガナに呑ませろ」
「……!?」
躊躇する私にアンソニーは読み上げるかのように伝える。
「これにてこのはじまり魔女モルガナは神罰の代行者としての任を解かれ、法王庁最後の封印、拘束特別術式NRVNQSRより完全開放される」
「それって……」
ああ、とアンソニーは唇を歪めた。
『NRVNQSR』とは、皇帝ネロのヘブライ語の綴りから来ているいわゆる暗号解説術の一つだろう。
諸説はあるが、暗号解読の対応表によれば、Nは50を、Rは200を、Vは6を、Qは100をSは60に数字化され、全てを合計すれば『666』になる。
そう、獣の数字。
「この術式が完全解放されるのは、歴史上最初で最後だ」
開けると石の中はなめらかな空洞になっていて、真紅の液体が数滴、ルビーのような輝きを放っていた。
「実行するからには失敗は許されない。目標は眼前の敵二体の完全沈黙、及び残留物の回収だ!」
「簡単に言ってくれるわね! アーネンエルベの実力を身体に教え込んであげるわ!」
迷っている時間はなかった。
一抹の不安を胸に抱えたまま、私は私は這いずるようにしてモルガナに近付き、指輪の中身を口に含んだ。
どうすればいいかは、不思議な事に身体が勝手に動いていた。
紅い液体と唾液を注意深く混ぜ合わせ、舌の上に乗せる。
(……これは、魔女の血だ)
それも高位の。
身体が急激に熱くなる。
『力』が全身に漲っていく。
これさえあれば、きっと私達は勝てる----。
身体から痛みが消えていく。
細胞の奥で何かが目覚める。
モルガナに両腕を伸ばすと、モルガナは応えるようにして僅かに目を細め、薄い唇を開いた。
こんな時にでさえ艶を乗せた唇は、まるで私を誘うかのような甘い息を吐いて。
「さぁ! 俺も茶番は大嫌なんだよ! さっさと神などとは無縁の本物の魔女の戦いを見せてくれ!」
そうだ、この男もまた狂っているのだ。
いや、この総統地下壕の誰もかれもが、皆この永遠の4月の夜を狂いながら生きている。
もはや煙草と酒の匂いしかしない戦場で、全ての正気は床のグラスと共に粉々に砕け散った。
正気のない戦場ほど凄惨な物はない。
そしてまたそこでしか踊れない狂っている者達がいる。
それがここにいる者達だ。
正義も悪もない。
ただ、生きるために。
確かに生きたという思いを感じたいためだけに。
「……ん、んく……ッ……」達は口付けをする。
まるで命を口移しにするかのように----。
今このベルベットのような舌を噛み切っても、きっとモルガナは微笑むだけだろう。
モルガナは私の全てを知り、全てを委ねている。
傲慢で、そして孤独な女王だ。
「……はぁッ……」
私とモルガナの唇の間に桃色の糸が垂れる。
甘くて微かに鉄の味のする、禁じられた味。
蜂蜜のように甘くて、炭のように苦い。
私の唾液と古の血、この二つがはじまりの魔女のを完全なものにするというのなら、モルガナは、制御される前の能力をそのまま発動できるのだろうか。
さすればこれは死の口付け。
滅びの口付け。
それとも----世界を救う口付けになるのだろうか?
掌の中の空になった宝石を私は握り締める。
これは捨てるべきなのだろうか?
そう考える事自体意味のある行為なのか?
これから何が始まっても私は構わない。
だが、このはじまりの魔女にだけは、生きていてもらわなければならない。
これほど切に彼女の生を願ったことがないくらいに、私は殺意を込めてモルガナを抱き締めた。




