イグノラムス・イグノラビムス
一見してこれまでの材質とは違う異様なドアは、分厚い石板で作られているようだった。
見る限り、取手どころか鍵穴らしきものもない。
「……ここだな」
「ここが?」
急ごしらえの地下階段に、まるで古代遺跡のようなルーン文字の掘られたドア。
これがナチスの、いやアーネンエルベが完成させた最終兵器の格納場所だと言うのだろうか?
「どうやらこのドアは音声反応錠のようだな」
一通りドアを眺めた情報将校は結論を出す。
それならさっきのようにユダの鍵は使えない。
「音声?って事は、どうやって開けるの? 開けゴマって言えばいいのかしら?」
「まぁゴマはヘブライ語のšem(神の名前)の畳語でもあるし、カバラの言葉では天国の名前はšem-šamáįmだからな……別に試してみてもいいが……」
本当に何者なんだこの男は。
「しかしコイツらはイカれてはいるが、それでも誰でも一度は試すような言葉を使うほど馬鹿じゃないだろ」
「それもそうよね」
確かにわざわざ分かりやすい言葉は使わないだろう。
ましてや3回間違えたら落とし穴に落ちるとかいうのも勘弁して欲しいし。
いやそういう仕掛けがここにあるのかは知らないけど。
「ただ、特定の人間の声に反応するのか、特定の言葉に反応するのか……」
顎に手を当てて数秒考えたのち、情報将校アンソニーはドアの正面に立ち、ゆっくりと息を吐く。
「行くぞ腐れ魔女ども。ここから先はもうお前達の地獄だ」
「了解」
メリッサが唇を噛み締めるのが見えた。
もしや彼女にはもう中の様子は予想がついているのだろうかと思った瞬間、肌に張り付いた修道服がその重みを増した気がした。
いずれにしても、恐らくはこれまでで最も恐ろしい相手が待っている。
地上戦とは全く別の世界線で、この星の未来が決まる。
アンソニーがドアに右手を当てた。
私達に一瞬振り返って、「ここからは見敵必殺だ!失敗など神に許されると思うな!!」と言うと、
「イグノラムス・イグノラビムス!」と叫んだ。
その言葉がコンクリートの空間に吸い込まれる前に、地鳴りのような重々しい音がして石造りのドアが横に開き始める。
「お前達は合図があるまで俺の後ろにいろ」
私は剣を握り、メリッサの手を繋ぐ。
まだ半分乾いた血で濡れているがそんな事を気にしている場面ではない。
(あれが『娘』……!)
開き切ったドアの向こうは想像していたよりも狭く何もなくて、部屋と言うよりはむしろ倉庫のような寒々しさだった。
床の上だけはケーブルだらけでここが只の部屋ではないことを主張している。
(いや、格納庫、か……)
などと考えているうちにアンソニーは既に5人ほどの男達を撃ち殺していた。
軍服は誰も着ていない。
部屋の真ん中に、ケーブルに繋がれた醜悪な金属の凶悪な棺桶が立っている。
形状鉄の処女なのだが、異様に大きい。
高さは3メートル近くか。
横幅も2メートルほどあり、内部に何か部品が組み込まれている事を思わせる。
顔は聖母とでも農婦とでも言えるような曖昧さだ。
「あらあらあら、随分小汚いネズミ達が入って来たわね」
いきなり声がして奥のドアから一人の眼鏡をした中年女がこちらにやって来た。
「今から崇高な儀式を始めようって言うのに、死にたいの?」
長い金髪を高めに結い、喪服のような細身のスーツに糊の効いた白衣。
「私はジョリーナ・リントヴルム、研究所の主任よ」
中年とはいえ、どこか少女のような意味もなく人を小馬鹿にするような笑みを浮かべている。
「しかしよく入れたわよね。方法を聞きたいけど残念な事に時間がないわ」
「残りの連中はどうした? 全く気配がないが」
アンソニーの問いには答えず、女は、「まず名前を名乗るのが礼儀じゃないのかしら」と返す。
「俺はアンソニーだ。こいつら二人はバチカンの修道女」
「あら、パチェリはここで終油の秘蹟でもやらせる気? それなら上の地下壕でしょ」
そういう訳にも行かなくてね、とアンソニーはゆっくりと後ろ手で私達を呼ぶ。
「……そろそろ時間だわ。この世界が変わる瞬間を体験できるなんて、アンタ達とっても幸運ね」
ジョリーナが『娘』の後ろにあるらしい起動装置を押す。
「お前もな。幸運かどうかは知らんが」
アンソニーは後ろ手でメリッサの金属製の首輪に触れ、「エパタ(ひらけ)」と一言だけ言った。
首輪に小さな閃光が走った。
それを合図にしたかのように、少女は自分の修道服を雨粒でも払うかのような自然さで床に落す。
そのまま鏡のように光沢のあった面に筋が一面に浮かび、全体に小さな正方形が出来たかと思うと同時に四散して消え去った。
「何よソレ!?」
ジョリーナは、滑稽なくらいにあんぐりと口を開いたままそれを見ているだけだ。
続いて白い首筋に唯一残った注射針が、ひとりでに首筋から抜け出て来る。
メリッサは、それを摘んで引き抜くと、掌に載せ、ふっと息を吹きかけて消した。
途端に身長が伸び始めた。
ゆるやかに広がる髪は金の光を帯び、ベールのようにふわりとなびく。
「あ、アンタまさか……まさかあの……あ、はじまりの……!?」
女主任の顔色が変わった。
「私以外に誰が来るっていうのよ」
そう言って嫣然と微笑む全裸のメリッサの姿はもう、金髪で緑色の目をした始まりの魔女そのものだった。
「……まだ本調子とはいかないわね……アイリス、来なさい」
『娘』の蓋が開く。
内部の無数の部品のランプが目まぐるしく点滅を始めた。
そしてその中心に蝶の蛹か何かのように拘束された少女が一人、立ったまま呻きを漏らしていた。
メリッサの手が私の顔に伸びる。
いつも変わらない、白く柔らかな手が。
「アイリス、貴女の『力』、全部貰うわ」
その言葉を聞きながら、私は口付けされたままもう両膝をついていた。
私の全てがモルガナに吸われていく。
私の全てがモルガナに還る。
私の全てがモルガナに奪われる。
そして、私はただの空の器に戻る。
殺すべき相手の贄としての役割を果たすのだ。
脱力感と陶酔に身を委ねながら。
そして、その私の前に拘束を解かれた『娘』の中の魔女が姿を現した----。




