官邸地下壕へ
「なんだ、雨でも降って来たのか? ずいぶん頬が濡れてるぞ」
やっと追い付いた私に向けた情報将校の第一声は、それだった。
「さぁ? 気付かなかったけど」
「そうか……まぁ降ってくれた方が都合はいいんだがな」
振り返ったメリッサは黙って私を見ている。
感情の色の全くないその目からは、何も窺い知れない。
「悲しむ必要はないわ」
「え?」
独り言のようなメリッサの言葉に、私は目を見開いた。
確かに私もあの母犬も、単なる兵器に過ぎない。
『サーチアンドデストロイ』
兵器であればこそ、その唯一の理論で殺し合い、生きる。
もしくは死ぬ。
それでもこんな気持ちになったのは初めてだった。
犬の仔を斬った感触は、まだ生々しく掌にこびり付いている。
(生きるとか、未来とか、なんでそんな言葉が思い浮かぶんだろう?)
これまでの任務では味わった事のない胸の痛みが、ずっと引かない。
言い表せない後悔が私の中で渦巻いている。
だが----メリッサがそれを知っているはずはない。
「余計な感情は『力』を消耗させる。これ以上は余計な事を考えるのはやめなさい」
「……承知、しました」
それに、と幼女の姿をした魔女は呟く。
「いずれにせよ、彼らはどの分岐点でも生き延びられる運命ではなかった」
分岐点?
運命?
「人間はね、完璧なモノを求めるあまり、完璧なモノに恐怖するの……主人であるはずの不完全な自分達が駆逐されてしまうのではないかって、ね」
言葉の意味するところが分からないまま、私はされるがままにメリッサに手を取られた。
「仮に生き延びたとしても、今度は恐れから殺されたでしょうね。あれだけの完成品を彼らは制御できないでしょうから」
まるで私達の死闘を見ていたかのような口ぶりで、魔女は私の手に自分の指をじわじわと絡める。
何かを確かめるかのように。
「貴女は大木の梢を手折ってもいない。ただ予定通り折れるのを見てしまっただけ」
白く小さな手が血と泥で汚れていく様は、何か美しく冒涜的な絵画のようだった。
「ふぅ……私のための『力』はなんとか残っているようね」
「もちろん、私の役割は貴女に『力』を補給する事ですから」
その会話を最後に、血と泥で幽鬼のようになった私はアンソニーとメリッサと共に旧総統官邸とは反対に位置する地下ガレージへ向かう。
すぐ横には衛生兵用兵舎が並んでいるが、窓に灯などもちろんなく、人の気配はしない。
誰にも咎められる事もなく私達はガレージに侵入した。
「ここの地下防空壕の天井の厚さは2.6mあり、地下施設は防空壕しかないとされている。だが、設計の段階では応接室の二部屋分空いた空間に、途上へ通じる未完成のコンクリート塔が構想されてる」
ガレージに並んだ高級車はうっすらと埃を被っており、もう何日も地上に人が出て来てないことを思わせる。
「コンクリート塔? 何のために?」
「……一応は放送局の施設、だと考えられている」
放送局。
その言葉に私の背中に緊張が走る。
そうだ、ナチス、いやアーネンエルベはベルリンからの放送網を使って逆転勝利を収めようとしているのだ。
「これを使ってドイツ国内のラジオ、ひいては世界中に展開したUボートを使って極秘作戦を計画していたのが分かったんだ。ラズベリー作戦に感謝だな」
「ラズベリー?」
首を傾げながらアンソニー達について私はガレージを横断し、突き当りの何の表記もないドアの前まで来た。
「ここから地下壕の更に下に潜入する」
「……できるの?」
情報将校は黙ってポケットから折り畳まれた図面を取り出した。
「我々スイス兵はバチカンだけにいる訳じゃない」




