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ヴァルハラなんてどこにもない

 最も大きな体躯に、燃えるような闘志を目に浮かべたジャーマン・シェパード。

 極限まで肉が落ち、骨格が浮き出る程にやせ細っているというのに、美しかった。


 私の父の自慢の猟犬よりも、遥かに生命力と闘志に溢れている。

 それは生命という形の体現のように見えた。


 そして----この期に及んでも私を倒し生き延びるという希望を全身に宿していた。


 思わず見入ってしまいそうになった私は、不意にある事に気付く。


「お前……もしかして子供が!?」


 そうか、それでこの犬は私の血の危険性を悟り最期まで攻撃して来なかったのか。


 ナチスドイツ崩壊後も先祖返りに成功した数少ないドイツ軍用犬の血統を護るため、生かし続けるため、この犬は----いや彼女は生きる事を放棄していないのだ。


「……そうか。だけどそれは諦める事ね」


 この母親のお腹には一体何頭の子犬がいるのだろうか。

 いずれにしてもベルリン陥落後、間違いなく彼らはあっという間に戦勝国同士の争奪戦に巻き込まれるだろう。


 そう、次の戦争のために。


 掛け合わされて。

 改良されて。

 増やされて。

 管理されて。


「お前達にはもう、未来はないの」


 私が言い放ったのと、母犬が私の頸動脈に歯を突き立てたのはほぼ同時だった。

 その背中ごと私は自分に向かって剣を突き立てる。


 彼女の胎の中の子犬達を、確実に仕留めるために。


「お前達はもうこの世界にはいらない……私達も、もういらない……だから、お前も、もうこの子達とお行きなさい」


 生命と生命が殺し合う。

 己の未来を賭けて、喰らい合う。


「うッ、ぐぅぅ……ッ……!」


 剣の先から、子犬達の脈動がドクンドクンと伝わって来る。


「でも、行くのは……はぁッ、ヴァルハラなんか……じゃない」


 甘美な嘘なんかで血の匂いは消えない。

 本当は誰もが知っている、欺瞞。


「アンタ達を捨て駒にした兵士達なんか、誰も……どこにも行けないのよ」


 これまでに何千回も繰り返して来た、生命いのちを絶つ手応えが、私をかえって冷静にさせる。


 既に私以外に動く影はなかった。

 私は唇を歪めた。


「だいたいそんな戯言……ッ、誰が考えたのかしらね……」


 だけど、と私は続ける。


「でもね、犬のヴァハラならちゃんとあるわよ。人間なんか誰もいなくて……広い草原とどこまでも続く山々と、タンポポの陰にいる兎や、木陰の鹿や、小川の鴨や……はぁッ、そんな獲物が好きなだけ捕れて、誰からも番号なんかで呼ばれない世界……お前達だけが行く資格のある……」


 だけどもう母犬はもう聞いておらず、息絶えていた----最期に一鳴きする事もせずに。


 裂けた腹から次々と落ちた羊膜に包まれた子犬達も、もう動いてはいなかった。

そのうちの一つを拾い上げると、まだ温もりがあった。


「……軽いな」


 子犬達の性別を確認すべきかとも思ったが、もうその意味もないだろう。


 私は羊膜につつまれたそれを一刀両断する。


 ブジュリ、とぬめった水音が耳朶を打つ。

 今、一つの未来がついえた。


 ひとつ。

 もうひとつ。


あれだけ人を斬って来たのに、まるで初めてのような憐憫と悔恨が私を責める。

 誰が----?


(これが私の気持ち、なの?)


 命の未来が消えて行く。

 これまでも失われて来た、数え切れないほどの命と同じ軽さで。


いつしか血飛沫を浴びていないはずの方の頬が生温かくなっていた。


(……余計な時間を取ってしまったな)


 もうこれ以上ここに私の用はない。

 居場所もない。


「行こう、フルンティング」


 私は、総統地下壕へ行くために歩き始めた。

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