選別されしもの
また一頭、喉元を狙った的確な跳躍。
だったが----。
(待て、今のは……ッ!?)
正確無比だった攻撃ラインが、ほんの僅かに揺らいだように見え、避けながら私は息を呑む。
それは私に対する攻撃への迷いではない。
私という得体の知れない存在への躊躇ではない。
そんなものを持つ軍用犬は全て戦場で死んだ。
厳冬の地で。
灼熱の地で。
得体の知れない沼地のジャングルで骨と化した。
ここにいるのは多くの仲間達の屍の上に君臨する、真の意味で完成された犬達しかいない。
幾万幾十万の軍用犬達の忠誠心と怨念と、そして得難い『血』を持って全ての敵を殲滅させる犬の姿をした、血と骨と肉でできた兵器しかいない。
何事も無かったかのようにソイツは私の太腿に牙を突き立てる。
やはり耐性ができているのだろうか?
(ちッ、時間を取られ過ぎている……このままエンゼルトランペットが効かなかったら、いっそ地下まで着いて来させるか……?)
いや、ターゲットが私である以上メリッサとアンソニーを襲う可能性は低い、と考えるのはいくらなんでも楽観的過ぎるか。
リスクも計り知れない。
(だったら、どうする?)
改良を重ねたコイツらの身体はまだ疲労していない。
主人を護るために、どのような手段を使っても私を殺そうとしているのが分かる。
肋骨の浮いた滑らかな毛皮の下では、こうしている今でも強靭な心臓が全身に血液を送り続けている。
あとどれだけ私の血を飲めば完全な効果が出る----?
(焦るな! しっかり観察して効果の出ているヤツから無力化する!)
その間にもまた一頭が頭突きでも喰らわせようとするかのように突っ込んで来た----刹那、その頑強な前脚が不意にもつれた。
「!?」
立ち止まった犬の表情に、この時初めて戸惑いの色が浮かんだ。
(効いて来たか……!)
エンゼルトランペットが引き起こすのは幻覚作用だが、組み合わせる毒草の種類や量によってその効果はそれぞれに違う。
幸福な幻覚を見る者もいれば、恐ろしい幻覚を見る者もいるという。
だが、犬はどうなのだろう----?
犬は幻覚を見るのか?
「どうした? 来ないのか?」
私の問いに、その犬は初めて私と目を見合わせた。
攻撃の色しかなかったその瞳に、どこか遠くを見るような甘やかな靄のようなものがかかっている。
この目を私は知っている。
まだ私が領主の娘として名を呼ばれていた頃、私の父は毎年猟犬の繁殖を行い、それを私とマヌエルに手伝わせた。
手伝いと言っても簡単なものだ。
生まれて数日間、毎日母親の小屋へ行ってはその乳を飲む子犬の大きさを測り、乳の出ない乳房しか吸えない子犬は袋に入れて水に浸ける。
おぼつかない足取りで歩き始めた子犬達を観察し、足の大きさを確かめ、長時間の疾走に耐えられないと判断すればどこかへ連れて行かせる。
(そのたびにマヌエルは泣いていたっけ……)
泣くな、と父は言った。
弱いまま生き延びても、結局は死ぬだけだ。
弱い血を残しても、最後は滅びるだけだ。
弱いから死ぬのは人も犬も変わらない。
《だからお前も、強くならなければならない》
これは『選別』なのだ、と父は言った。
古にあった美しく強いものを時間をかけて取り戻すのだ。
全てが完璧で欠けたもののない世界を取り戻していくのが、我々の務めなのだ。
《そういう運命なのだ、お前達姉弟も》
「……ッ!」
気が付けば飛び掛かってきたはずの犬は、立っている私の両胸に前脚をかけるようにして立ち上がっていた。
普通の猟犬の比ではない強靭な筋肉がその熱を私の全身に伝えて来る。
しかしそこに攻撃の意思はない。
「お前、誰を見ている?」
勿論答えなどない。
だが、その目は語っていた。
靄のかかった視線の先に見ているのは----恐らくは母犬の幻だ。
心ゆくまで乳を飲み、母犬の体温を感じ、その鼓動で眠りにつき、いつまでも続くと思っていた日々の中に、今この犬は生きているのだ。
他の犬達の間に、漣のような戸惑いが伝わっているのが分かる。
そして、連携が少しずつ綻び始めているのも----。
「……」
母犬に甘える時の形で、開いたその口に、私は剣を突き立てた。
(きっと私には同じような幸福は来ないだろうな、犬よ)
口吻から尻尾まで真っ二つに裂けたソレは、初めて幸せそうに地面へと倒れた。
そして、犬へと戻った。




