Immacurate Mother
「この世の、真の女王……?」
「分からないのか? 聖母マリア……いや、それは仮初めの名に過ぎないか」
男は一瞬遠い目をする。
「青い薔薇、それが彼女の呼び名だ」
それは意外にも、礼拝堂の隅でステンドグラスを見上げる少年のような表情だった。
もう二度と会えない誰かを思うかのような、愁いすら浮かべて。
「……どうした? 俺がヤクでもキメてるように見えるか?」
私は首を振り溜息をつく。
「イカレてはいるけどパチェリからこの任務を託されている……つまりは残念ながらバチカンの中でもマトモのようね」
男は笑った。
「バチカンの中にマトモなやつなんかいないぞ。お前が一番よく知ってるだろ」
自嘲でもあり、自負でもあるかのような含み笑いだった。
そうなのだこの男は薬物中毒者でも異端の狂信者などでもない。
れっきとした法王----ピウス十二世の勅命を受けた魔女の運び屋であり、封印の解除者として私達に対する全権限を委任されている----おそらくは右腕と言っても過言ではない存在。
(パチェリ……貴方はどんな思いでこの作戦を立てたの?)
若き日に中庭で毒草を黙々と食んだ法王は、この男を通じて「備品」である私達に何を託す気なのか。
そして毒草を食み続け----自らを罰しているつもりなのか。
この戦いは、それほどまでに『人道に反した決着』が待ってでもいるとでもいうのだろうか。
聖母マリアは魔女の始祖であり、すべての魔女の母である----。
どのような思惑であれ、もしも明らかになれば、キリスト教世界は一瞬で崩壊する事実を、ピウス十二世はこの男を通じて私に明かしたのだ。
だが不思議と驚きはなかった。
むしろこれまでの全てが腑に落ちた、そんな気持ちだった。
「……そう、貴方達がこの数千年をかけて追い求めているのは、聖母マリアだったのね……」
処女懐胎。
聖母被昇天。
キリスト教を知る者なら誰でも必ず知っている、奇跡。
それは祝福。
それは恩寵。
それは----。
いや----人ならぬ者の『力』なのだ。
本来ならば。
まるで魔女の所業だというのに。
なのに彼女は人々に崇められ、慕われ、祈りを捧げられている。
自らが生み育てた神の子よりも愛され、その名を呼ばれ、敬愛の眼差しを向けられている。
そうだ。
聖母マリアという聖性の極み。
それは偽りのベールだ。
無原罪の聖母というベールを深く被って、彼女は今日まで人々の記憶から消えることなく唯一無二の女王であり続けた。
キリスト教に滅ぼされたはずの数百数千の異教の神々達と同じように、人間の無意識に入り込み、意識の奥の細い伏流水となって再び地上に現れる日まで潜んでいたのだ。
深い森の奥の鹿のように。
「イエスによってマリアが天に引き上げられ女王になったというのは後付けに過ぎない。その何千年も前から、人類には一人の女王の記憶が連綿と受け継がれて来た」
「……その女王は、どこから来たの?」
聞くまでもない事を、それでも私は聞いていた。
多分、答えを彼の口から聞かされる事が怖かったからだ。
「始まりの地……文明の種がもたらされ、今は海の底に眠る大陸に」
その女王の名前は----もう聞かずとも私の記憶が知っていた。
青い薔薇の咲き誇る大地。
大海原に囲まれた楽園のような、そう、人々が憧れてやまないエデンの園のような土地。
そこにいたのが、『青い薔薇』だ。
私の女主人。
そして私が最も憎む魔女。
今も私の隣で微動だにせず、生と死の無限の渦に身を置いている、はじまりの魔女。
全ての魔女の母。
魔女の中の魔女。
「……モルガナ」
私は呼び掛ける。
「……なぁに?」
ベルリンが、すぐそこまで近付いてきている。
死の匂いが一呼吸ごとにその強さを増していく。
硫黄の匂いのしない地獄が、底無しの闇が、私達を待ち構えている。
「死なないで」
私はそう囁いて、付け加える。
「私が殺すまで、貴女は決して死なないで」
「うん」
幼女はすぐさま承諾する。
事の重大さなどまるで理解していないかのような速さで。
だがそこには無邪気さなどひとかけらもなく----。
「……貴女がいる限り、私は死なない」
厳かに私に身を寄せ、はじまりの魔女は詩でも諳んじるかのように、そう囁いた。
「貴女と私は、一つの心臓を分け合ったんですもの」
息が止まりそうになるくらいに優しい声が、私を包み込む。
自分を殺したいと四六時中考えている女に掛けるには、その言葉はあまりに慈愛に満ちていた。
(……勝てるはずがない)
どんなに憎んでも足掻いても、私は私を魔女にしたこの魔女には勝てない。
あの時からそれは決まっていたのだから。
人間が魔女になるには、それぞれ理由がある。
欲望。
悲しみ。
絶望。
怒り。
それから----。
(……それから?)
ふとわが身を顧みる。
私は何故----。
「できそこない、お前が魔女になったのはそれが運命だったからだ」
(運命?)
瞬きをした途端に、車は静かに停まった。
私達は、ベルリンに到着したのだ----。




