刻まれし名は
「……この作戦の結末はどうなるのか、貴方なら知っているのかしら?」
私の問いに、男はハハッと軽薄な笑いを立てた。
「分かる訳ないだろう? それこそ『Mundus deus solus scit』だ」
「神のみぞ知る、って訳ね」
道は延々と陥没が続き、タイヤはその上をひたすらに走り続ける。
道路がもうその用をなさなくなるのも、時間の問題だろう。
(いつ敵襲があってもおかしくない地帯に入ってるのか……その割には、異様に静かだ)
床に書かれた稚拙な灰の魚は、車両が跳ねるたびに少しずつその姿を崩していく。
「芥子粒ほどの信仰心もなさそうな貴方に言われると、かえって安心するわ」
「そりゃどうも。寝る前のお祈りは欠かした事がないんだがな」
鳥の声すら聞こえない。
聞こえるのは、車体のどこかが時折悲鳴のように軋む音だけだ。
虚無のような静けさが私達を迎え入れる。
(……庭園局総出の広域封印か!)
もう外を見る必要もないだろう。
私達は、ベルリン郊外まで来ているのだ。
「こんな有様なら、この戦い自体の勝敗は既に決しているようなものね……なら『娘』の出番はないんじゃないの?」
いや、と男は首を振る。
「だからこそお前達に出撃命令が出ているんだ」
「……ああ、死なばもろともとか、そういう感じで無理矢理使うからとか?」
しかし手負いの狼が牙を剥くのをここまで恐れているとは。
何だっけ? 焦土作戦とか何とかいう言葉を聞いた気がするけれど、彼らは最終的に何を目指しているのだろうか?
全てを破壊し、再生する神にでもなるつもりなのか?
そんな事は無理だろうに。
いや、『魔女』を使えばそれすら可能という事なのか?
「アーネンエルベにとって、ナチスの勝敗はもはや関係がない」
「関係が、ない?」
それではまるで----。
「奴らは『娘』を作り出すためだけにナチスを利用した。そして完成させた『娘』の『力』の発動でこの世界を作り替えようとしている」
「ヒトラーはその事を?」
知らんだろうな、と気だるげに返し、男は爪先でもう形のよく分からなくなった魚の絵を爪先で散らした。
「敵を全滅させる最終兵器が、まさか自分も標的になっているとは夢に思っていないはずだ」
「しょせんは彼も単なる捨て石、なのね」
なるほど、アーネンエルベ、いや今はそう名乗る団体は、既に息をしているだけの宿主を捨て、新しい宿主を確保したのか。
いや、違う。
もう宿主は不要になるのだ。
数千年に及んで宿主から宿主へとその姿を変えながら生き延びて来た集団は、表の世界そのものを消し去ろうとしている。
私にとっては大した問題ではないにせよ。
「もし、アーネンエルベが勝利すればバチカンはどうなるの?」
答えは聞くまでもないだろうが、一応確認しておきたかった。
「……たとえ美しい真珠でも、真っ二つに割れればもう二度と一つにはなれない。断面は年月と共に風化し、欠け落ち、持ち主が変わるたびにその掌の汗が染み込み変色していく」
なるほど、その結果がこの世界だ。
「元の一つだった頃の姿に戻ろうという希望も幻想も、とうの昔に互いへの羨望と憎悪に変わっているよ……それでも長年完全な敵対関係にならなかったのは、指輪の契約があったからだ」
「指輪……って、法皇の指輪ね?」
法王が変わるたびに叩き壊され、新しい法王の名を刻まれて再び作られる指輪。
それはバチカンの象徴。
そして、世界の礎----。
でもそれが何故?
「青い薔薇を求めていた集団が分裂した時、彼らは同じ形の指輪を一つづつ作った。一つはバチカンに、そしてもう一つは、アーネンエルベよりはるか昔の名もなき組織が持つ事になった」
「なら、その指輪には……?」
歴代の組織の指導者の名が刻まれているのかという問いに、アンソニーと名乗る男は静かに首を横に振った。
「……その指輪を自分の目で見た者は誰もいない。だが、こう伝えられている」
男は私を見る。
まるで世界の真実を告げるかのような厳かな顔で。
「この世界の『真の女王』の名前が刻まれている、と」




