アイゼルネ・ユングフラウ
この世で一番恐ろしい犬笛----。
アンソニーは何かを思案するかのように、己の吐き出した紫煙の動きを目で追っていた。
「……その暗号名は『娘』だ」
「それを始末しろって事ね」
『娘』というからには、恐らくは私達のような魔力を持つ少女だろう。
しかし、犬笛とはどういう事なのだろうか?
(動物を使役できる能力……? しかしそんな能力が敗戦間近のドイツの最終兵器になるのだろうか?)
このままいけば、ベルリンは陥落する。
そんな状況から反転攻勢に転じられるほどの威力を持つ秘密兵器が極秘に用意されている。
にわかには信じがたい話だ。
だが、現にバチカンは連合国に私達に使用を許した。
こんな事は初めてだった。
魔女は中世以来バチカンの、いや、法王のみが使用できる存在であったのだから----。
「俺の言う事が信じられないようだが、そいつはただの魔女じゃないぞ」
「どういう意味? まさか犬笛で伝説のドラゴンでも使役するの?」
情報将校は「それならマシなんだろうけどな」と唇の端を歪めた。
「奴ら(ドイツ)による『娘』の正式な呼び方は『アイゼルネ・ユングフラウ』らしいぞ」
「なによそれ……」
私は思わず立ち上がりそうになってしまった。
「それ、エリザベート・バートリが使ったっていう……鉄の処女の名前じゃないの!?」
エリザベート・バートリとは、悪名高きハンガリー王国の貴婦人だ。
史上名高い連続殺人者であり、吸血鬼伝説のモデルにもなったとされている。
「そう、『血の伯爵夫人』が使っていたというあの拷問器具だな」
エリザベスの伝説は多くが後世の脚色だとはされているが、召使を折檻し、嬲り殺すという趣味自体は当時から知られていたようだ。
夫が死去し、彼から贈与された城に移ってからはエリザベスの残虐行為は更にエスカレートした。
最初は領内の農奴の娘を誘拐し惨殺していたが、やがて下級貴族の娘を城に連れて来ては拷問器具を使い身体の一部を切り取り、それを飾って眺めたりして楽しんでいた。
そして、そのうちにエリザベスは拷問の際に浴びた若い娘の返り血が自分を若返らせるのだと信じ込むようになる。
若い娘の生き血を効率的に採取できるように、エリザベスは鉄の処女は作らせた。
「鉄の処女……聖母マリアを象ったともいわれる女性の形の高さ2メートルほどの人形……」
ぞっとしながら私は呟く。
そんなもの、どうしたら思い付くのだろうか。
人形の中は空洞になっており、前面は人間を入れるために左右に開くように作られている。
物によっては木製のものもあるというが、共通しているのは、左右に開く扉からは、長い釘が内部に向かって突き出しているという点だ。
改良されたものだと、本体の背後の部分にも釘が植えられていたと伝えられている。
そして、犠牲者の悲鳴は決して外に漏れる事はなかった----。
搾り取られた娘達の血液は管を通してエリザベス愛用のバスタブへと注ぎ込まれ、犠牲者が死んだ後に棺の扉を開けると棺の床が抜けて死体は水で城の外に流されるようになっていた。
水路に設置された刃物により娘の死体は、城外に出る頃には原形をとどめていなかったという。
「……もちろんその『娘』が『鉄の処女』そのものではない」
アンソニーは根元まで吸った煙草を床に押し付け、ぐりぐりと磨り潰す。
「正確に表現すれば『鉄の処女』に似せた容器に入れられた『娘』だ」
「どうしてそんな趣味の悪い……」
言いかけて、私は気付く。
「そう、中からの声は外には聞こえない」
「……という事は、能力を遮断するための装置って事か!」
そう気付いた途端、私の背中に悪寒が走った。
たかだか魔女一人を拘束するためだけに、ベルリンの地下深くに用意された立ち入り禁止の施設。
分厚い外壁に覆われた『娘』と呼ばれる存在。
決して聞いてはいけないその『声』。
「つまりはそれだけ強力な『力』を持っているって事よね」
「ああ、取り扱いは厳重注意とされているらしいが、それでも実験中や移動中に『事故』が数件起きているようだ」
なるほど、犬笛だ。
それも人間を狂わせるほどの強力な犬笛----。
「ならどうしてそんな厳重管理された兵器の存在が分かったの?」
「ああ、それはUボートの動きを追っているうちに判明したんだ」
人を狂わせる魔女とUボート、一体何の関係があるというんだろうか。
「あとはそうだな、ラジオやテレビ……軍事用に訓練されたクジラやイルカも関係していると言えばもう分かるんじゃないのか?」
私は目を見開いた。
その様子を見て、情報将校は頷いて見せる。
「……そのこの世で一番恐ろしい犬笛とやらを各地で中継し、増幅させ、同時に全世界に響かせる……それがナチスの計画だ」




