犬笛
初めその「犬笛」という唐突な単語は、トラックの轟音の中で、ただの独り言のように聞こえた。
長い道の前にも後ろにも車列はない。
何もない舗装されていない真夜中の道を、古びたトラックは私達を乗せてひた走っていた。
私とメリッサ、そしてイギリスから来たと名乗った正体不明の三十代の情報将校が一人。
途中で用意された偽装用のドイツ軍幌付きトラックは、覆われた荷台からは外の様子が全く見えない代わりに、中からも外の様子が完全に見えないようになっている。
確かに外気の寒さを防ぐにはいいかもしれないが、整備が行き届いていないのか強い重油の匂いが鼻につく。
そして、おそらく私達全員、同じ臭いが下着にまで染み付いている。
(偽装用って言うからバチカンででも用意したのかと思ったら、これ途中で鹵獲したやつじゃない……大丈夫なのかしら?)
しかも悪路を猛スピードで走っているせいだろうか、疲弊しきった金属製の部品の焦げたような臭いがあちらこちらから漂って来ていた。
(うッ、これが、車酔いってヤツなの……? なんか胸がむかむかしてきたかも……)
隣のメリッサはと言えば、ベールのせいで顔が見えないが微動だにしない。
荷台に乗った時から、心配になるくらいずっと同じ姿勢だ。
(あとどのくらいでベルリンに着くんだろう……?)
これまで数え切れない村や集落を通って来た。
最後に通った村は何処の村だったか。
いや、村と言うよりは、あれはもう瓦礫の山としか言いようがなかった。
木材の燻り続ける匂い。
鉄の焦げた匂い。
それから、人の肉が焦げたあの独特の匂い----。
村人達は、私と同じように醜く黒く焦げた舌を出して事切れたのだろうか。
彼らの身体から立ち上った煙は、何処まで届いたのだろうか----。
天高く、神のおわす雲の上まで?
村を通り過ぎてからも死臭は幌の中に残りつづける。
そしてそれは日に日に濃厚になっていく。
息が、僅かに乱れているのが分かった。
不快感と嫌悪。
それだけのはずなのに、目尻に涙が浮かんだ。
(妙だな……こんなのもう、とっくに慣れているはずなのに)
ではこの感情は何なのだろう。
村人達への憐れみ?
いや、この私が人間に感じようはずはない。
では恐怖への共感か?
いや、一度で死ねた彼らに何故私が共感する?
なのに。
炭になったままの舌の先がチリチリと痛む。
喉元までじんわりと苦みが広がる。
そうだ、私だって、最初に殺された時は人間だった。
私と彼らの苦痛に何の優劣があると言うのか。
神は平等だ。
理不尽に殺される苦痛に回数の差など関係ない。
私は苦笑する。
(……昔はそんな事思った事もなかったけど……)
哀れな村人達。
彼らは抵抗したのだろう。
抵抗しなければその先にさらに恐ろしい地獄が待っているのを知っているから。
ここで敵を食い止められれば祖国は守られると言いきかされて殺されて行った人間達に、私は魔女になって初めて同情と言う感情が湧くのを感じる。
(この戦いが最後? そんな訳ないじゃない……)
人間は何度でも同じ間違いをする。
同じ過ちを正しいと信じて繰り返す。
これから先も、きっとまた。
人間が、人間である限り----。
その時だったのだ。
情報将校が永遠に続くかと思われた沈黙を最初に破ったのは----。
「犬笛……?」
とはいえ、彼の言葉はすぐさま耳をつんざくような轟音に掻き消されたが。
「まぁ、そんなもん敬虔な修道女様達には分からないか」
「……そのくらい知ってるわよ。あのチャールズ・ダーウィンの従弟が発明した、犬猫に使う訓練用ホイッスルの事でしょ」
どこまで私達の素性を知らされているのかは知らないが、この男は私達を普通の人間として扱う。
アンソニーだとか名乗ったその情報将校は、「ふむ」と頷いた。
「その前に……一服いいか?」
返事を聞く前に彼はもう紫煙をくゆらせている。
「あぁ、すまんな、チョコはもいさっきのしかないんだ」
「いいのよ。どうせ食べても私には味が分からないから」
黒字に金文字で商品名が書いてある薄い缶ケースに、細めの葉巻が数本残っている。
缶の内側も葉巻の吸い口も金色だ。
「これが吸えるって言うから志願したんだが、どうやらあまり割のいい話でもなさそうだな」
それは、戦場で嗅ぐにしてはずいぶんと繊細な匂いだった。
「そしてこれが最後の一箱だ」
「へぇ」
味わうというよりは、吸えなくなるうちに始末しておこうとでもいうような、僅かに性急さが混ざった仕草だった。
ひょっとすると、車内の空気を少しでもまともな匂いに変えたかっただけかもしれないが。
しばらくは沈黙が続いた。
煙草の煙だけが幌の中でうっすらと渦を巻いている。
情報将校は、細い紫煙をゆっくりと名残惜しそうに吐き出した。
「……さて、俺達はこれからこの世で一番恐ろしい犬笛を始末に行く」




