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第九部 1945年、8月のチョコレート

「……犬笛って知ってるか?」


 1945年8月。


 揺れる付幌に覆われた窮屈な車中で、不意にその年若い将校が年長の私にではなく、目をつぶっていた明らかに幼く見える少女に聞いたのは、彼女の緊張を解くためだったのだろうか。


「い、犬……ぶえ……?」


 私でも見れば分かる年代物の軍用車は、まるでそうでもしなければならないのだというように、一定の間隔を置いてはガクンガクンと酷く揺れた。


 私達はドイツのベルリンに向かっている。

 もうじき崩壊する永遠の首都、満身創痍の狼が地下深くで破滅の時を待つかつての幻想郷へ----。


 だが既に輸送路は寸断され、私達の到着は必要以上に長くかかっていた。


(バチカンの情報が本当だとしたら……もう間に合わないのかもしれない……)


 それでもこれは命令だ。

 私達魔女は備品なのだ。


 自分の任務について深く考える事は神への冒涜と教えられてきた。


(間に合う事を信じるしかないって訳ね……)


 場所によっては爆撃を免れて平坦な道も少しはあったが、後は巨大な蚯蚓が地中から飛び出して来たかのような大穴が、強弱をつけた不快なリズムで私達を無言にさせていた。


(メリッサは大丈夫だろうか……)


 今が昼なのか夜なのか、何処を通っているのか、何一つ私には分からない日々が続いている。

 これでもし緊張していなかったら、私は何度も車を停めてその場で吐いていただろう。


(それにしても犬笛って、急に何の話なの……?)


 メリッサはと言えば聞こえているのかいないのか口を噤んだままだ。


 私よりずっと年上であるはずの『始まりの魔女』は、出発から一度も口をきかなかった。

 合流時点でこの若い情報将校だか工作員と引き合わされた時も、彼女はまるで私の陰のように斜め後ろに立っていた。


 初めて四肢を拘束されないでの長距離移動ではあったが、その手段として子共の姿に無理矢理大化させられたらしいその内面は窺う由もない。


(本当に、中身まで子供にされてしまったんだろうか? まさかね?)


 作戦実行時は薬品と暗証コードで本来の姿に戻るとは聞かされている。

 それでもぶっつけ本番だ。


 危ない橋どころではない激流にかかった丸太の橋を、私達は今手さぐりで進んでいるようなものなのだ。


(それでも……バチカンがここまで戦争に介入、いや切り札を投入するため直接的の本拠地に乗り込む事はなかった……)


 勿論私達に作戦の詳細など知らされていない。


 バチカンに残るただ二人の生き残りの魔女をベルリンの地下要塞にて敵新兵器と交戦させ、それを再起不能までに破壊せよという命令である事はだいたい分かっている。


だが、それが問題なのだ。


質問された事も忘れた頃、不意にメリッサが口を開いた。


「……犬笛なら、狩で見た事がある」

「そうか」


 メリッサはそれだけ応え、また目をつぶった。

 私とメリッサは、バチカンから着て来た修道服の上から更に軍用コートを羽織らされていた。


 車内は肌寒い。

 だが若い将校は訓練の賜物か無表情で座っている。


「その犬笛を人間に対して鳴らす事ができたら、どうなるんだろうな?」


 そう言われて、少女は眉間に微かな皺を寄せた。


「たぶん、大変な事になる……と思う」

「それを思い付いても作らなかったのが、いわゆる理性のある生命体なんじゃないの?」


 付けたした私の言葉に、「ほう、さすがは『観察者』だな」と将校は平坦な声で答えた。

 この男、ある程度は魔女についての知識があるか、そういううた機関に属しているのかもしれない。


「そうやって世界の全てを観ているのか」

「まさか、この世界には知らない事の方が多いわよ……私達と人間との差はその違いに対する認識がどれだけあるか、どうすれば知らないことに少しでも近づけるかという、ただその一点だけ」

「……俺にはよく分からん話だ」


 アンソニーと言っただろうか、その将校は黙って頷き、背嚢の中から一枚のチョコレートを出した。

 「魔女がチョコ喰うのかは知らんが、栄養だけはつけておけ。これからは地獄だ」


 多分、これは彼の持つ最後の一枚だ。


「……貴方の分は?」

「俺はコレでいい」


 アンソニーは背嚢の奥から大事そうに出した煙草の蓋をおもむろに開け、一服する。

 私は少しだけ幌を捲り外を見る。


(ここはもう地獄の入口なんだろうか)


 悪路を昼夜を問わずひたすら走り続け、エンストしたら代わりの車両を調達してすぐにまた走り出す。

 これが馬だったらどんな強靭な馬でも血混じりの泡を吹いて動かなくなるだろう。


 それだけベルリンへの道は過酷だった。


 護衛も、補給部隊もない。

 作戦部隊と言えば聞こえは良いが、運転手に護衛の兵士は一人、そして修道女姿の私達二人----。


(まるでカミカゼね)


 農村は焼け、市街地は瓦礫だらけだ。

 緑はどこにもない。


 あるのはコンクリートの灰色と錆びた鉄骨の茶色と、所々に倒れている子供や女性の、風にそよぐ赤やオレンジのや服だったものの色----。


 至る所に死体が転がり、目ざとくやって来た蝿達が黒い煙のようになって腐りかけた死体に群がっている。


 鼻腔から入り込んだ死臭が、この戦争の凄惨な先行きを私に嫌でも想像させる。

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