針の上で天使は何人踊れるか?
「お前はヘミングウェイは読んだのか?」
「あー、老人と海と……あとは短編を幾つか」
何か月か前に、適当に手に取ったものをパラパラと読んだだけなので、正直タイトルすら忘れていた。
「で、感動したか?」
「……特には」
長い事不漁だった貧しい老人が数日かけて大物を仕留めたら、その獲物をサメに食べられて骨しか残らなかったとか、そういう話だった記憶くらいしかない。
「努力は報われない。人は死から逃れられない……ヘミングウェイはこの当然の道理を延々と描き続けて、最後は散弾銃で自ら命を絶った」
あれは退屈な小説だ、と法王は呟く。
何かを自分の中で確認するかのように。
「だから彼の作品には興味はない」
「そうなの?」
なら、何故あの書庫にヘミングウェイが何冊も並んでいたのだろうか。
「興味がない割には詳しそうだけど?」
アンソニーは唇の端を少し上げる。
「昔、自殺の研究をしていたからな」
「……それは、信者が自殺すると本当に地獄へ行くのか、とか?」
一体どんな研究をしていたのか見当もつかない。
「そんなもん、どうやって調べるんだ? 地獄まで行ってアンケートでも取って回るのか?」
「じゃあ……霊媒師に呼び出してもらうとか?」
私の言葉に、目の前の法王は今度は声を出して笑った。
「それならまだ針の上で天使は何人踊れるか、っていうやつの答えが知りたいものだな」
(いわゆる天使密度問題か……)
しかし、この男の口から天使という言葉が出ると、まるで悪い冗談のように聞こえてしまう。
あるいは何らかの暗号とか。
(いやいや、私も大概毒されてきてしまったのかも……)
針の上で天使は何人踊れるかという中世の天使学の議論は有名だが、実際にそのような議論が行われたかというと、はっきりとした記録はないらしい。
ともあれ、答えがあるなら私も知りたいけど、今はそれよりも----。
「……研究のテーマは、人は何故自ら死ぬのか? 自殺するのは人間だけなのか? というものだ」
「……人間以外で自殺する生き物……だと、レミングとか?」
レミングの集団自殺----。
レミングとは、北極及び北極近辺のツンドラ生物群系に生息するネズミの一種だ。
3年から4年ごとの周期で個体数が急激に増減することが知られている。
「確か、大繁殖すると個体数を減らすために集団で海に飛び込む、って話があるわよね」
「あれはスカンジナビアの伝説が広まっただけで、実際には個体数が増え、集団移住をする過程の事故で海に落ちてるだけだ」
あれ? そうなの?
「種としての生存戦略の一つだっていう説は……」
割と納得してたんだけど、違うのか。
「現在は否定されてる。お前の知識は古い」
「はいはい、どうせ中世生まれですよ」
ほんっとーに、食えないヤツだ----ピウス十三世というこの得体の知れない男は。




