ジレーネ計画
私の混乱に、ますます拍車がかかる。
この男は、ハバナ症候群とやらの話をしていたんじゃないのか?
それなのに、今は聞いた事もない大戦中のナチスの計画について話し始めている。
「ちょっと! 私はハバナ症候群の事を聞いてるのよ?」
「分かってるさ、だがな、ハバナ症候群はナチスの、いやアーネンエルベのジレーネ計画がなければおそらくは存在しなかった」
ジレーネ。
それは、ギリシャ神話に出てくる女性の怪物の名前だ。
上半身が人間の女性で下半身が鳥の姿をしているといわれる海の怪物セイレーン----それのドイツ語読みが、ジレーネだ。
「まぁ確かに歌で人を惑わす妖精の話は昔から有名だけど……」
セイレーンが世界的に有名なのは、ホメーロスの作品『オデュッセイア』に登場するからだ。
オデュッセウスの帰路の際、オデュッセイアは有名なセイレーンの歌を是非とも聞いてみたいと懇願し、船員には蜜蝋で耳栓をさせ、自身をマストに縛り付け決して解かないよう命じた。
やがて美しい歌が聞こえはじめ、その魅力的な声に、オデュッセウスはなんとかしてセイレーンのもとへ行こうと暴れたが、船員は彼を絶対にマストから離さぬようにさらに強く縛り付けた。
その時のオデュッセウスの脳内でどのような光景が広がっていたのかは何故か、記述にはない。
だけど、恐らくは【case-M】の記録にあるように、視界一面の白い花弁や蝶の幻覚が彼には見えていたのではないだろうか。
船が遠ざかり歌が聞こえなくなると、船員は初めて耳栓を外しオデュッセウスの縄を解いた。
ホメーロスはその後を語らない。
この話を編纂した紀元前の著作家ガイウス・ユリウス・ヒュギーヌスによれば、セイレーンが歌を聞かせて生き残った人間が現れた時にはセイレーンは死ぬ運命となっていたらしく、そのセイレーンも海に身を投げて自殺した。
死んだ彼女達の死体は岩となり、岩礁の一部となって航行中の船を悩ませたという。
似た話はドイツのライン川にもあり、いわゆるセイレーンの岩は今でも有名な観光名所になっている。
中世頃になるとジレーネの姿は人と鳥の混ざった姿から完全な女性の姿となり、美しい乙女として描かれることが多くなった。
「ローレライは、ライン川の難所を擬人化した事から始まったと考えられている。だが、ジレーネの神話に似た話は世界中で収集されている」
「つまり、ジレーネは声で人間の精神を操る魔女って事?」
そう言いながら、私はニクスとルクスの姉妹を思い出す。
幼い少女の棲む小屋の周辺には、いつしか怪異の噂が立つようになっていた。
すぐそばの沼地で誰もいないはずなのに声を聞いたという者。
連れていた馬が突然暴れて逃げ出したという者。
その時はまだ、彼女達に魔女の自覚はなかった。
だが魔女は、ただその場に存在しただけで周囲の生物の感覚を狂わせ、錯乱させる性質を持っている。
そして彼女たち姉妹の運命もまた狂っていった----。
「……あの子達はトゥーレのトップを、総統って呼んでたわ……彼の正体を知っていたのかしら?」
「それは知らん。だがハバナ症候群の重要なファクターだったのは確かだ。アイツらは素材の一部でもあったからな……それと、アネモネも」
アンソニーの最後の言葉に、私は思わず「なんですって!?」と声を上げていた。
「確かにアネモネは私の心に直接アクセスしてきたけど、でもそれは魔女同士だからじゃないの?」
「……その話は聞いた覚えがないな……まぁ、それは後からゆっくり聞くか」
しまった。
一番最初、地下室にいる時に初めてアネモネからコンタクトをとってきた時の話は秘密にしていたんだ。
だが、アンソニーは特にそれ以上何も聞かない。
(もしかして、もうとっくに知ってるのかも……)
相変わらず食えない男だ。
とはいえ、互いに命を預けるような戦いをしてきているとはいえ、私は庭園局の備品に過ぎない。
単に利害関係が一致しただけの法王と魔女。
この関係を壊すつもりは、私にも彼にも毛頭ない。
それが、数百年間続いて来た法王と、法王の剣の関係なのだから。
「でも、どうしてアネモネが……?」
「アネモネは確認されている中では現存していた中ではモルガナと同じ世代だ」
同じ世代。
つまり、最古の魔女という意味か----。
「その後に現れた魔女達と違い、潜在的に持っている『力』の種類も強さも桁違いだ。言ってみれば、『始祖』級のレベルだった」
そうだったのか。
驚きと納得が同時に込み上げて来て私は何も返事ができなかった。
(アネモネ……私、貴女の事は最期まで何も知らなかったわね…)
「でも、どうしてそんな話を貴方が知ってるのよ?」
ぼんやりした嫉妬と怒りに駆られて、私は両の拳を握る。
「ジレーネ計画もハバナ症候群もナチス側がやった事でしょ? どうやってその内容が貴方に分かるの?」
「科学者の中にはな、自分のやりたい研究さえできれば思想も倫理も関係ないって人間が想像より多い」
何を当然の事を聞いてるんだと言う顔で、法王はケープの中でもぞもぞと動き始めた子猫を撫でる。
その手はどんな信者の頭を撫でる手付きよりも優しい。
「奴らは悪魔にだって魂を売る人種だ。たとえ地獄に落ちようとな」




