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犬の頭の聖人

「ハバナ症候群というのは知ってるか?」


 私は首を振る。

 ハバナ----確かキューバの都市の名前だっけ?


「古の呼び方に従えば、サン・クリストーバル・デ・ラ・アバーナ、だ。クリストーバルとは守護聖人クリストフォロスのスペイン語読みになるが……」


 アンソニーはそこで人差し指を立てる。

 

「分かるか? 腐れ魔女……?」

「はいはい、伊達に長生きはしてませんよ」


 中世の敬虔なカトリック信者なら分かる質問だ。


「クリストフォロスなら、ギリシャ語で『キリストを背負う者』という意味を持ち、そして現在はカトリック教会の聖人暦からは消されている幻の聖人……って答えで合ってます? 法王猊下?」


 いわゆる聖人の中でも、クリストフォロスはその実在を疑われている。

 そのためバチカンではもう聖人とはしていない。


「うむ、まぁ正教会系だと今でも聖人とされてるがな……そもそも聖人のほとんどが伝説上の存在だったりエピソードが創作されたものだったりする訳だが、彼は頭が犬だったり馬だったりで、そもそも人間ですらない怪物が原形になっていると言われている」


 法王は真顔で敬虔な信者が聞いたら卒倒しそうな事を言う。

 いや、確かにそうなんだろうけども。


「へぇ……私が知ってるのは彼が改宗したローマ人、ってバージョンだけだわ」


 ざっと思い出せる内容はこうだ。


 イエスに仕えたいと急流を渡る人々の手助けをしていたら、ある日小さな少年が川を渡りたいと言うので背負って急流を渡り始めたら次第に少年は重くなり、そのローマ人は流されそうになりながら必死に対岸まで辿り着いた。


 その少年こそがイエスであり、何故そんなに重たいのかというと、全人類の罪を背負っているためだったのである----。


「イエスは彼を祝福して『キリストを背負った者』を名乗るよう命じ、彼の杖を地面に突き刺して大木とした。それを見たローマ人が大勢キリスト教に改宗したので、時の皇帝は彼の首を刎ねました……おしまい」

「斬首という結末と異形の頭の関連については諸説あるが……だいたいそんなところだな」


 しかし、この話に限らず、聞けば聞くほどイエスの起こす『奇跡』は魔女の『力』と何ら変わらない。


 相手に自分を重たく感じさせる。

 杖を大木へと成長させる。


 同じ事を『魔女』がやればそれは『魔術』とされて火炙りだ。

 理不尽極まりない。


「犬の頭で杖を持ってるといえば、私ならナイル川のほとりに立つアヌビスが真っ先に思い浮かぶけど……そういう解釈はないの?」

「ある……が、バチカンとしては否定している」


(確かに、エジプトの神がモデルだとは言えないか……色んな意味で)

 

「実際、ギリシアに併合されたエジプトでは、エジプト神話とギリシア美術が混ざり合った結果、アヌビスは智恵の神ヘルメスと融合している訳だからな……地下水脈のように異教の神がキリスト教に流れ込んでいるのは不思議でも何でもない」


 なるほど、ヘルメスもケーリュケイオンと呼ばれる杖を持っていたはずだ。

 医学の神とされていたアヌビスは、ギリシアの神と同一視される事で生き延びた。


 そして、イエスを背負うという形で、かつては高位の神であったという事を暗示して----。


「ここ(バチカン)にもヘレニズム化されたアヌビス像があるぞ」

「じゃあ、それで正解でしょ」


  聖人の伝承は、教会で語られ、文字が読めない一般庶民に向けた絵画となり、ステンドグラスとなる。

 一枚の構図に込められた異教の名残は、人々の視覚から脳に入り込む。


「巨木信仰だって紀元前から世界中で発生しているし」


 生い茂る大木は、カバラの生命の樹を思わせる。

 あるいはニューロンの一部を----。


「あ」


 私は唐突に思い出した。

 ハバナと言えば、晩年のヘミングウェイが『老人と海』を書いた街だ。


「……いい街だよ、ハバナは」


 心底懐かしそうな顔で、アンソニーは子猫を----いや、子猫の姿のままの猫をメリッサの腕から抱き上げる。


 メリッサは名残惜しそうな顔をしつつも、大人しく手を離す。


「またね、アーネスト」


 幼形成熟ネオテニーの猫の名前に、今の質問。

 そして、消された聖人の名を持つ街----。


「で、そのハバナと、魔女と……いえ、魔女の歌との間にどんな関係があるの?」


 暗闇に包まれた法王庁の中庭。

 私は、自分がもう既にその答えを知っているという予感に微かに震える。

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