SS先史遺産研究所アーネンエルベ
(ナチスに対するパチェリの行動の全ては魔女を、そして人間を……世界を護るためだったというの……?!)
本来なら真っ先にナチスを非難すべきローマ法王が頑なに続けた、不自然なまでの沈黙。
ユダヤ人への迫害が苛烈になっていく中で最後まで行われた。ヒトラーとの友好的ともとれる穏やかな書簡のやり取り。
だが、もうその時すでにヨーロッパ戦線は拡大の一途を辿っていた。
ピウス十二世は、全てを見ていた。
見ていながら沈黙を続けた。
(……違う、ただの沈黙じゃない。彼は……まだそれが人類最悪の事態ではないと『分かっていた』んだ)
最悪の事態。
それは----魔女が世界大戦の最終兵器として使われる事に他ならない。
ツングースカ大爆発の再来。
あるいは、世界規模での【case-M】の発生。
(そうだ、もしあの事例が世界規模で引き起こされたら………人間は全てモルガナの『世界』に取り込まれ、自我を失い……種族としての存在を失う)
モルガナの歌は、彼女の前頭葉で凄まじい波長に変換される。
人間の脳では到底処理しきれない速度と情報量の波が、周囲の人間の脳波を直撃し、そして神経の伝達を完全に破壊し、彼女の『世界』に全て取り込むのだ。
その『フィールド』に入ってしまえば、祈りも懇願も効かない。
聞こえるのは呻きと狂笑いと、しばらくしてから響く子供のような甲高い笑い声----。
花弁の舞う幻覚の中で、人は、自我を崩壊させられる。
それがもし、ラジオや通信機を使って世界中で同時に行われようとしたら----?
歓喜と笑みのうちに世界が崩壊するのだと、パチェリが知っていたのだとしたら----?
黒い貴族の末裔であるピウス十二世は、青い薔薇の血を知る者として、そして、モルガナの『力』の秘密を知る者として、なんとしてでも避けなければならなかったのだ。
恐ろしい厄災を起こしてはならない孤独な使命を帯びていたのだ。
そう、取り返しのつかない地球規模での厄災をたった一人で阻止するという』使命を----。
(黒い貴族……十九世紀に起きたイタリア統一運動の中にあって、法王領を次々と失い窮地に立たされたローマ法王への忠誠心を最後まで捨てなかった、数少ない上流階級の者達……)
彼ら黒い貴族が何ゆえに法王に、そしてバチカンに忠誠を捧げたのか。
それは彼らこそがイタリアにあって魔女の実在を知り、なおかつその血筋を密かに見守り続ける役割を担っていたからだ。
(そう、多くの犠牲者の血が流されていても、それは魔女の『力』が使われた時に比べれば、まだ悲劇として認識されるだけの余地はあった……だけどもしも魔女を実際に兵器として使えば、その時はもう……悲劇を語り継ぐ者すら存在しなくなるほどの破滅が待っていたはずだ……)
私は目を閉じる。
ベルリンで秘密兵器が使用されると知ったピウス十二世は、初めに何を思ったのだろうか?
驚きか。
後悔か。
怒りか。
絶望か。
神への失望か----。
そして彼は、私をベルリンへと向かわせた。
モルガナと共に。
だが、そこで矛盾が起こる。
ベルリンにいるのは、恐らくはモルガナだ。
では、私がともにベルリンに向かったモルガナは、一体誰なのか?
(トゥーレ協会、あるいはアーネンエルベの造った最終兵器……それは、たぶんモルガナのクローンか、もしくは培養された双子か……?)
メリッサにもラボで共に生まれた姉妹はいた。
ただし、実験に耐えられず溶けてしまったが。
今となっては深層を全て知るのは困難だ。
だか、それでもパチェリを私は信じる。
まだ法王庁国務長官だった頃に、夜中にたった一人で中庭に現れ、私の目の前で微笑みながらドクゼリを食べて見せた男を。
彼はもうその時すでに己の役割を知っていたのだろう。
世界の崩壊を阻止するという、人間の感情すら捨て去らなければ実現できない使命を託されている事を。
そして己が必ず握る事になるであろう法王の剣を見に来たのだ。
それから数年後の1945年4月、ベルリンという名の地上の地獄へ、同族殺しの魔女という刃を送り込んだのだ。
世界の運命を変えるために----。
(だけど、私は……)
またランプの炎が揺れた。
「アイリス、早く寝ようよぉ」
ドアの向こうから寝間着に包まれた小さな身体が飛び込んで来る。
「そっか、もうこんな時間になってたのね……」
するすると私の膝に上って来た幼女が、頬を膨らませる。
「お休みのキス、ずっとまってたんだからね?」
「ごめんごめん」
私は本を机の上に置く。
今夜はもうこれ以上読み進める気にもなれなかった。
「なんのご本読んでたの?」
メリッサは首を傾げるようにして本のタイトルを読もうとする。
「メリッサにはまだ早いと思うわ」
「そう?」
『でもパチェリは、アーネンエルベを甘く見過ぎていたんだよ、姉上』
不意に幼女の声が変わる。
聞き覚えのある声は、いつの間にか直接脳に響いていた。
『トゥーレ協会はあくまでもアーネンエルベの一機関であり、言ってみれば単なる目くらましに過ぎない組織だよ……彼らは絶対に表には姿を見せない。真の黒幕だ』
「……ッ! マヌエル、あ、貴方……どうしてここに……!?」
目の前のメリッサが何かを一生懸命に喋っているのに、まるで映像と音声がちぐはぐな画像を見せられているかのような理解できない光景を、私は見ていた。
『あそこには全てがあった……気象学から化学はもちろん、解剖学、心理学、そして長い事オカルトとされてきた民間伝承の実証実験や、そう……青い血の研究施設なんかが、ね……ラスプーチンが何回殺されて生き返ったか姉上は知っている?』
膝の上のメリッサの顔を見ながら、マヌエルの声を聞いている。
それは頭がおかしくなりそうな状況だった。
『ね? 人間ってちょっとした感覚の齟齬で簡単に狂えるんだよ?』
「……貴方、今度は何をしたいの?」
私の弟、マヌエル。
いつも勝手に出て来ては、一方的に喋って消えてしまう。
私達姉弟は決して触れ合う事がない。
昔のように心を交わらせる事が、もうできない。
まるで弟は、白い森から滲み出して来た形の定まらない霧だ。
そして私はその霧を掴むことは永遠に叶わない。
『僕は言ったよね? この地球の運命は最初から決められているって』
メリッサが私を揺さぶって必死に何かを叫んでいる。
だけど私は指一本動かす事ができない。
頭がぐわんぐわんと揺れている。
椅子に座っているのに床が波打っている。
『パチェリはね、たとえどんな事をしても勝てない運命だったんだ。そうだね、それが……彼の罪かな』
そして、とマヌエルは続ける。
『その罪を犯させたのは、他でもない姉上自身なんだ』




