坩堝
「……いくらラスプーチンが当時では最先端の医学を独学で学んだとして、一人で眼球移植の手術を成功させるのは無理だったはずだ」
どのくらい私の意識は飛んでいたのだろうか。
アンソニーの声に、私は慌てて火の消えたランタンを拾い上げる。
硫黄の匂いはとっくに消えている。
芝生の匂い。
目の前の司祭服から漂う、香油の香り。
いつもの中庭の匂いしかしない。
「どうした? 気分でも悪いのか」
そう言いながら、半ば無意識のように右の側頭部に手を当て、微かに眉を顰める。
その仕草で、マヌエルがアンソニーに主導権を戻した事を私は察した。
やはりマヌエルの人格の出現時は、彼の脳には相当の負荷がかかっているのだろう。
(アンソニーはこれまでの人間と違うから長く身体を使いたい、って言ってたけど……やはり【case-M】での唯一の回復者という事が関係しているんだろうか……?)
はじまりの魔女モルガナの『世界』を見た者は皆、精神の死を迎えた。
その記録を見た者もまた、廃人と化した。
だが、検邪聖省内庭園管理局局長であり、かつ事故調査委員会の唯一の証言者であるアンソニー・コルティーことフランチェスコ・パチェリはモルガナの『世界』から生還したのだ。
この男は人間でありながら、人間の域を超えた脳を持っている。
(……果たしてこの男は本当に『あちら』の人間なの?)
人間の側なのか。
魔女の側なのか。
あまりにも掴みどころがない。
マラキの預言が真実ならば、このピウス十三世こそがキリスト教の終わりをもたらすバチカン最後の法王なのだ。
実のところ、今のピウス十三世は、本当はどこまでがピウス十三世なのだろうか?
「……大丈夫よ、気にしないで」
当然、そんな疑念を口にできる訳もなく。
「ちょっと手が滑っただけだから」
「ならいい」
何事も無かったのような調子でアンソニーは続ける。
「恐らく、ラスプーチンは早い時期で資金力と技術を持つオカルト組織と接点を持った……もっと言えば、オカルトと脳科学の融合を目指し、来たるべき世界大戦に向けて新兵器を開発しようと画策する組織だ」
なるほど、アナスタシアの件は、そう考えるのがむしろ自然かもしれない。
「……トゥーレ協会の結成が1918年1月。皇帝一家の暗殺が1918年7月17日……可能性としては十分にあり得るわね」
しかしツングースカ大爆発は、トゥーレ協会の結成の十年前の1908年6月30日だ。
時期が合わない。
「1908年以前も、第一次大戦後の混乱期には幾つものオカルト団体が乱立した。東洋の国の諺に『雨後の筍』というものがあるが、ロシア周辺はまさしくそんな状態だった」
「でも、そういうのって創立者はだいたい詐欺師みたいのが多いんじゃないの? 昔から人心が乱れる時期にはよくある話でしょ」
本で散々読んだパターン。
歴史は繰り返すというやつだ。
「ああ、確かにいわゆるオカルト集団は、ペテン師か狂人が率いるイカレ集団だよ、今も昔もな……だが、その中には青い薔薇についての知識や未発表の技術を持った人間も混ざっていた。長い時間をかけてそれらの人脈と知識が流れ込んだ坩堝がトゥーレ協会だ」
そう言って、法王ピウス十三世は右手の薬指に嵌めた指輪を私の前にかざす。
金色に輝く法王の権威の象徴----そう、漁師の指輪だ。
「この指輪と同じ事だ……今は私の名前が刻まれているが、以前は先代の名前が刻まれたものが漁師の指輪として存在していた。だが、刻まれた名前が変わっても思想としての漁師の指輪は延々と受け継がれている……Tやナチスが青い薔薇を手に入れようとする遥か昔から、その『力』を手に入れ利用しようという考えそのものは存在していた」
庭園局の調査では、皇帝支持派の秘密組織が魔女を使った未来予測実験に失敗した結果が、あの大爆発の真相だと言う。
「って事は、その実験の内容と結末をトゥーレ協会は知っていると?」
知ってるも何も、とアンソニーは鼻で嗤った。
「まぁ聞け……ツングースカでの初めての現地調査はソ連科学アカデミー調査団によるものだが、爆発から実に13年後も経過している」
「ずいぶんと遅いわね」
混乱期とはいえ、時間がかかり過ぎる。
(どこかで情報が操作されていたのか……あるいは実際には調査団より先に現場を突き止めた組織があった?)
「お前の想像通りだ。実際には実験を行った組織は爆発直後から現地で証拠の隠滅と、魔女の回収を開始していたから、調査団が現地に行った時には、何もかもが終わった後だった」
魔女の、回収----?
私の怪訝な顔に気付いたのか、法王は頷いた。
「爆発の際に全ては施設ごと吹き飛んだが、被検体の魔女だけはあの第四層部分に生き埋めになっていたんだ」
「……ッ!?」
あの巨大なクレーターの底に----たった一人で?
考えただけで背筋が冷たくなる。
恐怖。
孤独。
絶望。
何年も絶えず繰り返される渦巻く負の感情のループ。
なのに、死ぬ事は許されず、逃れられない自身の身体と言う名の檻に閉じ込め続けられる----。
助けて。
助けて。
助けて。
アネモネの声が頭の中に木霊する。
(アネモネ……どんなに、苦しかったんだろう……)
確かあの場所は昔から地元の人間は近寄らない聖域であり、忌地でもあったそうだ。
そういう場所は、たいがい磁気の異常や素粒子レベルでの特異な現象が観測されるという。
(……魔女の『力』は脳波と深く関係している。そんな場所に何年もいたら、拷問でしかない)
「回収作業の資金源は、ロマノフ家の財宝だ……その魔女は、結局数年がかりで回収され、皇帝一家を救うという条件で組織からトゥーレ協会に譲渡された。Tが手に入れた最初の、灰ではなく生きた魔女だ」
「もしかして、それが……アネモネだったの……?」
私は気付く。
法王庁の地下にいた時のアネモネは『風の魔女』として大気に漂う人々の思念や、物質に残された記憶を『視る』事は出来たが、他人の思念にまで入れるような『力』はなかったはずだ。
(つまり、それは……)
アネモネのあの強大になった『力』は、ツングースカの地の底という牢獄の中で全ての負の感情が極限まで増幅された結果だったのだ。
そして、トゥーレ協会もまた同じく気付いたのだろう。
『手に入れた魔女を、更に強大な『力』を持つ人の形をした近代兵器として生まれ変わらせる方法』を----。




