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罪の証

『マヌエル! アネモネの言っていた取引って本当なの……ッ!?』

『本当だよ。僕は姉上には嘘はつかない主義なんだ』


 アンソニーはというと、黙ってランタンを掲げたまま立ち尽くしている。

 眼鏡の奥の瞳は大きく開いたままだ。


 この状態がどういう事か、私はよく知っている。


(フリーズしたか……また倒れなければいいんだけど……)


 今、法王ピウス十三世の人格はマヌエルによって強制的に眠らされている状態だ。

 このまま脳に負荷がかかり続けると危険だ。


 だが、私には聞きたい事が山ほどある。

 今この瞬間を逃せば、私の方からマヌエルにアクセスを取る手段はない。


『でもどうしてアネモネは貴方に……?』

『そんな事を知って姉上はどうしたいの? 約束通りアネモネは姉上に殺されて灰になった……そしてその灰は無事に法王庁ここへと収容された……別に何も問題はないはずだよ?』


 そういう事じゃない。

 そんな次元の話を私はしたいんじゃない。


『問題はその取引の意味よ! 貴方には何のメリットがあるの? 何が最終目的なの……?』


 ふっ、とマヌエルは笑う。


『そうだよね、姉上にはまだ分からないよね』

『分からないわよ! さっきの運命の話も、貴方が魔女の灰にそこまで拘る理由も……何もかも私には分からない……!』


 苛立ちと嫌な予感がない交ぜになって、私は右手を握り締める。

 遠い昔、人間だったあの時には、こんな感情をマヌエルに抱く事なんて一度もなかった。


『……大人になったんだよ、僕も、姉上も』

『そう? 数百年生き続けて歳を重ねるだけで大人になれるとは、私は思えないけど』


 だが、マヌエルは確かに変わった。


 面影は、あの頃の、ひ弱で何もかもおぼつかない少年のままなのに、その内面は恐ろしく老成----いや、老獪に変化している。


 マヌエルは、私をもう追い越している。

 私の隣に立つ事は、もう二度とないのだろう。


(そうだ、昔のままなんだと思いたいのは私だけ……)


 もう、今度こそ認めざるを得ない。

 マヌエルはもう、私の知っているマヌエルではない。


 マヌエルは----紛れもない魔女なのだ。


『姉上も、もうそろそろ全てを思い出すべき時期が来たんだ』

『どういう意味? 本当は私は全てを覚えているって事?』


 嫌な汗が掌をじっとりと湿らせる。


『全てなかった事にするだけじゃ、何も変わらないんだよ』

『忘れたくて忘れた訳じゃないわよ! 私だってあの頃に戻りたい! 火炙りなんかにされる前の、人間として普通の女の子として穏やかに貴方と暮らしていた事に戻りたいわよ!』


 マヌエルがまた笑った----ような気がした。


『なら、何故姉上は自傷行為のような戦いを続けているの?』

『え?』


 戸惑う私にマヌエルは畳み掛ける。


『何故姉上の舌は黒いの? 何故その瞳はそんな色なの?』


 マヌエルの声が頭の中でぐわんぐわんと木霊する。


 何故?

 どうして?

 いつから?


『そ、それは……舌が焦げているのは火刑にされたからで……この目の色も、その時に変わって……だからアイリスって名前を付けられて……』


 本当に?


 私の舌はいつからこうだった?


 一度も抱いた事のない疑問。

 なのに、その答えを知ってしまう事が、とても怖い。


(どうして……? 私は前は人間で、領主の娘で、魔女だとされてから火炙りになって……それから……)


 そう思えば思うほど、疑念が押し寄せて来る。


『じゃあ、火炙りにされる前はどうだったか覚えてる?』


 マヌエルはそう言って黙り込んだ。

 まるで私の記憶を探ろうとするかのように。


『わ、私の舌は……』


 こんなになめらかに動くのに。

 ただ、何もかもが苦いだけなのに。


『私の舌は……火炙りにされたから黒いのよ!』


 そう答えるしかなかった。


 人間だったころの記憶はほとんど覚えてないのに。

 断言できるほど私は私の事を何も知らないのに----。


『私は、こうなる前は……普通の……人間で……』


 ただ私は、これから知らされるであろう真実に怯えて拳を握っているしかなかった。


『違うね』


 希望が、一つ壊れる。


『姉上の舌は、生まれた時から黒焦げだった……父上の日記にはそう書いてあったよ』


 まるで慰めるかのような口調で弟は私に告げた。


『だから父上は確信し、狂喜した……一族で求め続けた青い薔薇をついに生み出す事ができたから』


 父上が?

 何故?


 アレクサンドラ達王族が血族結婚を繰り返す事で青い薔薇の血を保ってきたその陰で、辺境の地の弱小領主の一族が、青い薔薇の血筋を守り続けていたという事なのか?


 では、私は生まれるべくして生まれた『正統な』魔女だったというのか?


(それじゃ、初めから父上は私を……?)


 父の書斎の膨大な書物を私は思い出す。


 占星術に錬金術。

 歴史書。

 植物や鉱物の本。


 それから----青い薔薇の書き込まれた紋章。


(あぁ……そうだ……私の家の紋章には……アンソニーの部屋のタペストリーと同じ、青い薔薇があった)


『瞳の色が紫色に変わったのも偶然じゃない……そう決められていたからからだよ』

『決められて……いた……?』


 言われた言葉の意味が分からなくて、私は混乱する。


『だから姉上は火刑のせいでそうなった訳じゃないんだ……全ては初めから、そう……運命だったんだ』


 決められていた?

 運命?


 気が付くと取っ手が汗で滑り、ランタンは私の手から落ちていた。


『やっと思い出した? そう、姉上がああしてわざわざ自分に痛みを与える戦法を取るのはね……無意識の贖罪なんだよ』

『贖罪……? 何の……?』


 急いでランタンを拾わなきゃ。

 そう思っているのに、指一本動かせない。


『仲間を殺すという過酷な任務をこなし続けて自分の思考を麻痺させ、自分の存在に疑問を持たせない……少しでも思い出す事を先延ばしにして自我を保つ……それでも心の底では常に自分を罰しているんだ』


 弟の言葉は、聞こえているのに全く意味が分からなかった。

 遠い昔に観た旅の一座の芝居の科白のように、どこか別の世界の話のようにしか響かない。


 風もないのにアンソニーの持つランタンの炎が激しく揺らめく。

 いつしか青くなったその炎は、法王の顔を死人のように青白く浮かび上がらせている。


『……分からないわ』


 横たわった私のランタンの火が静かに消えて、白い煙が薄く立ち上る。

 私はそれをただ眺めていた。


『……何の贖罪か分からない、って事?』

『マヌエル、やめて……もう、何も言わないで……ッ!」


 既に香油の香りは消えている。

 代わりに漂うのは、硫黄の匂い。


 地獄の気配が私を包む。


 法王庁の中庭で、地獄が真っ黒な口を開けている。


『裏切りの贖罪だよ、姉上の……■■■に対する裏切りの、ね』


 マヌエルの声はそこで途絶え、二度と聞こえる事はなかった。 

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