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静謐の後に

 アネモネは何一つ身に纏わぬまま水槽の中にいた。


 正確に言うと、充填された液体の中に無数のコードを接続されて浮かんでいた。

 そして、その身体には、あるはずの四肢がなかった----。


「どうして……!?」


 白い睫毛に縁どられた目は、閉じている。


 白く長い髪は、水草のように揺らめいている。

 捨てられた人形じみた血の気のないその肌は、白さを通り越して透明になり始めている。


 巻き付いた無数の黒いコードはまるで茨だ。

 アネモネを縛り、侵食し、貪っている。


 コンマ数秒ごとに電気信号を送り込みながら、アネモネの命そのものを食んでいる----。


 そんな錯覚を起こさせるほどに、彼女が弱っているのが痛いほどに伝わって来る。


 もはや、意識を保っているのが不思議だとしか言えない。


『間に合ってくれて良かったわ……もう、溶解が始まる頃だから……』

「よ、溶解って……でも、ここから出れば助かるんでしょ!?」


 ありもしないと分かっている希望を掻き集めるようにして、私は水槽に駆け寄った。


『いいえ、この中から出たら私はもう形を保てないから……この身体は、培養液でなんとか維持している状態なのよ』


(そんな……アネモネが溶けるなんて……)


 魔女は死なない。

 殺されても生き返る。


 しかし、例外が一つある。


 それは魔女としての『力』が全て消滅した時だ。

 魔女としてのいわゆる寿命が絶えた時、魔女は『死』を迎える。


 長い年月をかけて『力』を使い切った時。

 あるいは、想像を絶する負荷をかけられて『力』を発動させられた時、魔女は死ぬ。

 灰にならずに、溶けてしまう。


 メリッサの双子の姉のように。


『私の力はもう全て使い果たされた……腕も脚も溶け落ちたのにまだ生きているのは、この培養液があるから……でも、それももう限界だった』


 アネモネは目を開く。


 赤い瞳。

 全てを見通す、澄んだ穏やかな瞳----。


(……!!)


 その焦点は、しっかりと私の姿を捉えている。


(アネモネの目が……!!)


 奇跡なのだ。

 奇跡が起こったのだ。


 そうでしかない。


 そうでなければ、アネモネの目が見えるようになるはずがない。


『いいえ……今私がこうしているのは、奇跡でも何でもない』


 ゆっくりと瞬きしたアネモネの瞳の色が、濃くなったように見えた。


『この星に、奇跡というものは存在しない……貴女が一番よく分かっているはずよ』


 これが奇跡じゃない?

 だったら、それは----。


『私は取引したの』

「取引……?』


 嫌な予感しかなかった。

 そして、嫌な予感は必ず的中する。


『驚いたわ……こんな状態になってしまった私に、地球の裏側からアクセスできる魔女がいたなんてね』


 ああ、そうなんだ。

 やっぱり、そういう事なんだ。


 あの子は、本気なんだ----。


『そう……貴女の弟、マヌエルよ』


 微笑んだアネモネの腕の切断面から指先程の小さな塊がぽろりと溶け落ち、培養液の中へ無数の粒になって散っていく。


『私のこの身体は、もう私の意思がなければ形の維持すらできない……彼は、貴女の弟は……貴女がここに来るまでそれを代行してくれると言ったわ』

「……その条件は、何?」


 私が来るまで生きていてくれて良かったという思いと、マヌエルが一体何を企んでいるのかという思いが、私の唇を震わせる。


『溶解する前に貴女に殺されて灰を残す事、それが条件……』

 

 腕の切断面から、脚の切断面から、ぽろりぽろりと肉塊が雫のように溶けていく。

 まるで私の決断を急かすかのように。


 マヌエルは、私に早く灰にしろと言っているのだ。


(マヌエル、お願いだからもうこれ以上アネモネを苦しめないで……!)


 弟の存在をはっきりと感じながら、私は奥歯を噛みしめる。


 何故マヌエルは魔女の灰に固執するのか。

 それをここで考えている時間はない。


「……分かったわ」


 どうせ最後は私が殺すのだ。

 マヌエルの書いた筋書きをなぞる訳ではない。


 私の意思で、魔女アネモネを殺すのだ。


『下のスイッチを押せば、培養液が排出されて水槽が開く……その瞬間にマヌエルとの接続は切断されて、私の本格的な溶解が始まるわ』


 アネモネは淡々と告げる。

 見知らぬ他人の運命を告げるかのように。


 そこに恐怖の色は微塵もない。


 むしろ私の方が動揺していた。


(今更何を後悔してるの? 約束を守ると決めたのは私……私なのに……)


 殺す事は救う事。

 殺す事でしか救えない。


 それは、私にしかできない。


 アネモネの悪夢を断ち切るために、私はアネモネをこの手で殺す----。


 私はジャケットを脱ぎ、水槽から少し離れた床にメリッサをそっと横たえる。

 そして代わりに大剣フルンティングを握る。


 メリッサは、すうすうと寝息を立てている。

 アンソニー達はただ私の動きを見ている。


 スイッチを押す指が、馬鹿みたいに震えていた。

 大音量で警告のメッセージが流れているというのに、海の底にでもいるかのような気持ちだった。


 死という名の静謐が、全ての音を無意味にしている。

 私とアネモネの声以外存在しない空間で、私は殺すための支度をしている。

 

『水槽から出したら、すぐに……お願い』


 充填されていた培養液が、渦を巻くようにして水槽の下へと吸い込まれていく。

 それを待っていたかのように水槽のガラスが天辺から分割され、キラキラと輝きながら蓮の花のように開き----一斉に砕け散る。


 それは、とても綺麗な光景だった。


 ジャリ----ッ。


 砕けたガラスを踏んで、私は水槽の残骸に近付く。


 残された金属製の底面で、アネモネが私を見上げる。

 長く白い髪が、彼女の小さくなった身体に張り付いている。


 繭から出て来ようとしている蝶のようだ、と私は思う。


『世界って、綺麗ね』

「そうね」


 私達は微笑み合った。


 アネモネの身体に繋がれていたコードが、次々と外れていく。

 そこから肉色の滴が垂れ始める。


 もう、血など一滴も残ってはいないのだ。


『貴女は裏切者だけど……約束は守ってくれるって信じてた……』


 私はフルンティングを握る両手に力を込めた。


「信じてくれて、ありがとう」


 私の言葉は届いたのか分からない。

 溶解の進んだ身体は、もう胸から下が肉色の水溜りに浸かっているような状態だ。


 だが、アネモネは嬉しそうに目を細めた。


「アイリス……ありがとう……私、ずっと……待って……」


 蒼褪めた唇が動いている。


「さいごに、このめで、あなたをみれて……よ、よかった……」


 とても小さな、だけどはっきりした声で、アネモネは私に囁く。


「……だい……す……き……」

「アネモネ……ッ!!」


 私は大剣を振り上げた。

 言おうとした言葉は、絶叫にしかならなかった。


「ああああああッ……!!」


 突き刺した剣の感触で、私はアネモネの完全な死を悟る。


 私はアネモネを殺した。

 約束通りに。


「ああッ、あああああ……!」


 なのに、どうしてこんなに涙が出るのだろう。

 嗚咽が止まらないのだろう。


 剣の感触が変わる。


 アネモネの身体と、溶解した部分が、さらさらと音を立てながら灰へと変化していく。

 座り込んでしまった私の前で、また一人、魔女が死んだ----完全に。


「アネモネ……アネモネ……ッ!」


 任務は、完了した。

 だけど私は動けなかった。


(マヌエル……貴方の目的は、一体何なの……? 貴方にとって魔女の灰にどんな価値があるというの?)

 

 答えは返って来ない。

 だが確実に、マヌエルは今この瞬間も私達を見ている。


(貴方の筋書きはどこに向かっているの? どんな結末を目指しているの?)


 幾つもの足音が駆け寄って来るのが聞こえていたが、私は立てなかった。

 隊員達に腕を引かれた時には、目の前から灰は全て消えていた。


「……出るぞ」


 法王アンソニーの声に、私はやっと立ち上がった。

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