末路
「嫌よ!! いやいやいやッ!なんでッ!? なんでこうなるのよ……ッ!?」
アナスタシアは既に半狂乱だった。
目だらけの指で、既に染みだらけになった薔薇色のドレスを引き千切り、髪を掻き毟る。
「こんなの嘘よッ! 私は魔女よ!? なのにどうして……!?」
リボンがはらりと解け、綺麗に編み込まれていた髪もぐしゃぐしゃに絡まる。
まるで鳥の巣のようになった金髪が、束になって床に落ち始めた頃には、アナスタシアはもうほとんど下着しか身に付けていなかった。
そして、私は息を呑む。
ドレスに隠されていた脚は、二本とも黒焦げだった。
その脚は、鶏の脚のように硬そうで、今にも折れそうな程に細くて----バーバヤーガの脚そのものだった。
誰よりも私が知っている理由で、彼女の脚は炭と化していた。
焼かれた時のあの熱と匂いと痛みと恐怖とが一気に込み上げて、吐きそうになる。
舌がジクジクと疼く。
第四皇女アナスタシア。
彼女の家族と使用人達は、イパチェフ館で1918年7月17日未明にヤコフ・ユロフスキー率いるチェーカーの銃殺隊によって、この建物内で超法規的殺害という名目の下で全員殺害された。
それは、処刑と言うにはあまりにも残虐で執拗な殺し方だった。
最初の銃の一斉射撃によってニコライ2世、アレクサンドラ、料理人が殺害された。
主治医とメイドは負傷に終わるが、その数分後に銃殺隊が銃撃を再開して主治医が殺害された。
アレクセイは足が不自由だったため椅子に座っていた。
銃剣で何度も刺されたが、服に縫い付けてあった宝石に当たり刺さらなかったため、別の兵士が頭部を撃って殺害した。
姉のオリガとタチアナも、それぞれ頭部を撃たれて死亡した。
まだ生き残っていたアナスタシア達は部屋の窓近くの床に倒れていた。
彼女達も最終的には銃殺ないし刺殺されたと証言が残るが、アナスタシアの遺体とされるものはバラバラに切断され、そのうえ焼却までされている。
彼女だけではなく、他の女性の遺体にも焼かれた跡が残っていた。
遺体の破損があまりにも執拗に行われているため、全員分の遺骨が見つかったとは言われているが、個人の同定が終わったのされるのは2007年だった。
だけど、アナスタシアだけは焼かれても甦ったのだ。
「……ねぇ? 私と貴女は同じなのよ? 何度も何度も殺されて、家族を失って……大切なモノを守れなくて……」
人外そのものの姿と化した皇女がぼそりと呟く。
「弟を守れなかったのは、貴女も同じじゃないの」
「そうね。後悔してるわ」
私達の会話を黙って聞いていたモルガナが、アナスタシアに、いや、その座っている車椅子に向かってクイと指で招いた。
ギイギイと軋みながらこちらへ向かって来ると、車椅子は結界を抜けてモルガナの前まで進み、そこで突然バラバラに分解する。
「……ッ!?」
投げ出された皇女はもう起き上がる気力もないのか、横座りの格好でモルガナを見上げる。
「……私、死ぬの?」
「そうよ」
顔色一つ変えずに、はじまりの魔女は答える。
「このまま置き去りにされて数年かけて命の炎が消えるのと、今ここで灰になるのと、どちらがいいか貴女には分かるわよね?」
「……私の名前アナスタシアの意味は、「鎖の破壊者」そして「復活」よ……このまま大人しく死ぬと思うの?」
精一杯の強がりに、「それはアイリスに聞いてみなさい」と微笑み、モルガナは目を閉じる。
美しい瞼の曲線は、まるで聖母マリアだ。
もう、モルガナの魂はここから去ったのだと私は悟る。
「……この裏切者ッ!」
アナスタシア----いや、アナスタシアだった物体が、私に身体を向ける。
「私は……あの子を、アレクセイを託されて魔女になっただけなのに! 帝国の復活のために『力』を使い続けただけなのに! 貴女だって同じじゃないの! 一体何が違うの!? どうして私だけがこんな目に遭うのよッ!?」
ズリ……ズリ……ッ。
「ね?人間なんか愚かな生き物じゃないの……バカで貧乏なくせに、貴族や王族さえ倒せば自分達が偉くなれるとか夢見て私達を憎んで……ハァッ、あんな奴らは私の『力』に使われるだけありがたいと思えばいいものを……」
両腕だけで、アナスタシアの残骸が這い寄って来る。
「私は聖人なのよ、それでも殺すの? 帝国のために、人である事をやめてまで魔女になった私を殺すの……?」
それは、憐れで、惨めで、悲しい姿だった。
「黙って聞いていれば分かったような口をきいてんじゃないわよ! じゃあ、自分でその身体一杯の目に聞いてごらんなさい……自分の正義のために貴方達の人生を壊し、命を奪っただけなのに私は殺されるの? ってね」
彼女にはまだ分からないのだ。
自分達以外の普通の人間が道具ではなく、自分達と同じ感情もそれぞれの人生も持っているというごく当たり前の事実が。
邪視で人々の人生を壊し、命を奪ってきたという過去は、彼女にとっては弟を助けるための正義の行為でしかないのだ。
それが罪だと理解する機会を彼女に与える者が誰一人としていなかった事だけは、同情に値する。
「ねぇ……結局私は、何者だったの?」
掠れた声で、アナスタシア・ニコラエヴナだったモノは問う。
モルガナに。
私に。
そして己に。
「……さぁ、もっと長生きしていたら、その答えが分かったかもしれないわね」
十七歳の少女に、十七歳の少女が返す答えではない。
何よりも、私自身がこれだけの生を重ねていても分からないのだから。
ただ、道具に過ぎなかったというには酷すぎる。
生きるとは死なない事ではない。
生きるとは、世界と関わる事だから。
世界と関われず、王室の中の仮初めの平和の中だけで慈しみ育てられて来た少女にそれを理解しろとは、私は言えない。
「……もう終わりなのね」
私の表情に何かを悟ったのか、アナスタシアは呟く。
「あの子のいない世界で生きたって、しょうがないもの」
もはや原形を留められなくなった人型が、真っ黒な眼窩を私に向けた。
「ねえ、魔女を殺すのって、どんな気分?」
眼球がなくても、その目は私を見据えている。
私は、今どんな目をしているんだろう?
「答えてよ、ねぇ、どんな気分なの?」
憎悪?
怒り?
歓喜?
同情?
軽蔑?
恐怖?
慙愧?
慈悲?
義務感?
いや、どれでもない。
----羨望だった。
「魔女を殺す時は、そうね、私と替わって欲しいと思ってた……この500年の間ずっと」
この孤独と痛恨と痛みを誰が終わらせてくれるのか。
無為な時をひたすら刻み続けるこの心臓を止めてくれるのは、誰なのか。
弟を守れなかった私への、罰はいつ終わるのか。
それだけを考えて気の遠くなるような時を過ごして来た。
あの子を。
マヌエルの仇を取るというただその望みだけで、不死と言う名の死を過ごして来た。
(だけど今は……)
彫像のように動かないモルガナを見ても、心は波立たない。
何故なら、彼女はメリッサでもあるからだ。
もし仮にモルガナを殺せと命じられたとしたら、私は拒むだろう。
そして、その私の心境の変化を、モルガナは察している。
「今は、そうね……私は、私の友人と私自身を救いたくて貴女を殺すわ」
私の答えを聞いて、邪眼の魔女は、嗤った。
背中が冷たくなるくらいの乾いた嗤いは、永遠に続くのかと思われるくらいに終わらなかった。
「……ならやりなさいよ」
元皇女が私を見上げる。
ニタリと笑う。
「そういえば、ここから先の脱出口は私の魔力反応が消えた時点で自動的に破壊される仕組みになってるらしいわよ」
「そう、ご親切にありがとう……使えない番犬の最後のお勤めって訳ね。できれば最後まで自分の牙を使ってくれたらやりがいがあるんだけど」
私は大剣を振り上げた。
「作戦は帰るまでが作戦よ……脱出口が破壊されようがどうしようが、何としてでもアネモネを取り返して帰る……それが私の任務なの!」
目の前の肉塊はケタケタと笑いながら両手を広げた。
その姿は、多分一生目に焼き付いて離れないだろう。
これこそが、真に恐ろしい邪視の呪いなのだ。
「さぁ、贖罪の時間よ!」
「ロシア帝国、万歳! ロマノフ王朝に永遠の栄光あれ……!」
そう叫ぶ元第四皇女アナスタシアの心臓に向かって、私は渾身の力で大剣を突き立てた。
もう二度と復活などできぬように。
それはまるで水の入った袋のような感触だった。
内臓も、骨も、張り付いていたはずの無数の目玉も全て溶け合い、この世の物質ではないナニかに変化していた。
皮膚が破ける感触と共に、漆黒の液体が噴出する。
原油のような。
いや、それよりももっと有機的で、冒涜的な匂いを放つ----地獄のヘドロのような。
そして、硫黄の匂いが漂って来る。
「……あは、私、これじゃあもうワルツは踊れないわね……」
それが最後の言葉だった。
肉塊から流れ出た黒い液体は床の上に流線型を描きながら灰へと変化し、抜け殻の周りに少しずつ積もっていく。
「……これが邪眼使いの最後……」
あまりの衝撃に放心していた私は、何か柔らかいものが床に倒れる音を聞いて我に戻る。
「メリッサ!」
駆け寄って抱き上げようとした私は、改めて自分の姿に気が付く。
浄化されたとはいえ、獣人のままだ。
だけど、このまま床に倒れさせておくわけにはいかない。
爪を立てぬよう、そっと肩から抱き起す。
その体温にホッとする。
「……誰?」
まだ半覚醒なのだろうか回らない舌で少女が問う。
「私よ、メリッサよ……」
そう言うと、メリッサはゆっくりと目を開いた。
「ふふ……今日のメリッサ、狼さんなのね」
「うん、なんか……元に戻らないんだけど……」
そう言うと、少女は身を起こし、私に口付けした。
「もう少し狼さんのままでも私はいいんだけどなぁ」
「……!」
指先が、脚が、見る見るうちに見慣れた自分のものに戻っている。
体毛が皮膚から消えていく。
(元に戻った……!)
それと同時に私達の周囲を覆っていた封印が解けていく。
「終わったのか!?」
「見りゃ分かるでしょ」
そう言うと、隊員達が早速床の灰を集め、慎重に数値を測定している。
「……って、なんでお前まですっぽんぽんなんだよ? 趣味か?」
「服が再構成されなかったんでしょ」
アンソニーは眉間に皺を寄せ、丸めた毛布を投げて寄越す。
「まずはソイツにかけてやれ」
言われなくてもそのつもりだ。
寝息を立て始めたメリッサをしっかりと包む。
ふと背中に何かが当たるのを感じ振り向くと、隊員の一人がジャケットを押し付けて来ていた。
「あ、ありがとう……」
そう言うと、彼は答えず無言で作業に戻る。
私は大きめのジャケットに袖を通した。
こんな事は、初めてだ。
少し、香油くさい。
それでもフルンティングを背負うには十分だ。
「……さて、それではいよいよ最後の扉を開かせてもらうか」
アンソニーの言葉に、私は腕の中のメリッサを抱く手に力を込めた----。




