絶望の木霊
「な、何よ……成れの果てなんて……この私が、そ、そんな事なんかに……なる訳ないじゃない……」
アナスタシアがやっと声を出す。
だが、その頬は引き攣っていた。
「だって、この私は……」
「そう、貴女は、実の父ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフの両目と自分の両目を交換したのね……邪視返しを防ぐために」
(え!? ……そのために父親の目を移植したっていうの!?)
邪視は知られている魔術の中でも古く、基本的なものだ。
悪意を持った目で相手を見る事で呪いをかけ、意識を改変させたり、心身に異常を与えたり、最終的には死に至らしめる事もできる。
そのため邪視持ちは西洋でも東洋でも恐れられ、対抗するための術も様々に存在する。
呪いを唱える。
お守りを持つ。
相手よりも強い悪意で相手の目を見詰め返す----など。
例えば現存する最古のお守りは、1500年前に東ローマ帝国が統治していたビザンティンで使用されていた青銅製の邪視避けのネックレスが有名らしい。
このネックレスはガリラヤ海の西、アルベルにある古代ユダヤ教シナゴーグの跡地近くで発見され、そこにはギリシャ語でユダヤの神の名である I A W Θが彫られている。
そう、英語で発音すればYahaweh----神だ。
邪視に対抗できるのは、神しかいないのだ、と。
それほどまでに強く、恐ろしい『力』なのだ。
「しかし『自分の』目でなければ、邪視返しが効かないとは、あの男も面白い事を考えるわね」
あの男とは、ラスプーチンの事か。
しかし、いくらなんでも常軌を逸した話だ。
ましてや、自分の娘との交換とはいえ、己の目を抉り出す事をロシア皇帝が承諾するとは。
「貴女の本当の目は、その額の第三の目……ただしそれを手に入れた代償は大きかったようだけれど」
「……そうね。でも、母上も姉上も『力』を発現できなかった以上、この私がやるしかなかったのよ!」
という事は、アナスタシアの『力』は母親のアレクサンドラ・フョードロヴナの血統か。
ラスプーチンは社交界に取り入り、皇后の周辺を調べ上げ、アナスタシアにまで辿り着いたのだろう。
「あの人が私に言ったのよ、もうすぐ自分は殺される……だからアレクセイを、血友病である君の大切な弟を守り、癒し、ロシア帝国を永遠の帝国にできるのは、もう第四皇女の君しかいないんだ、ってね」
誇らしげに唇の端を曲げ、アナスタシアはモルガナを見上げた。
皇女の威厳を誇示するかのように。
「だから、私はやるの……アレクセイを生き返らせて、そして、私達のあの素晴らしいロシア帝国を再び取り戻すの……!」
「バカね」
モルガナは一笑に付した。
「誰に何を吹き込まれたのかは私には何の興味もない。でも、夢の時間はもう終わりよ」
アナスタシアが奥歯を噛み締めたのが分かった。
「やれるものならやってみてよ、大魔女さん……私をどうやって殺せるのか」
「目には目を、歯には歯を……ハンムラビ法典くらいは覚えておきなさい」
生徒に諭す教師のような優しい口振りの後、金髪の魔女は何かを唱えた。
「……ッ!? 目がッ、閉じられない……ッ!? どうして!?」
両手で額の目を隠そうとするが、まるで見えない無数の手がアナスタシアの全身を車椅子に押さえ付けているかのように、どんなに身を捩っても皇女は自分の身体を動かせないままでいた。
「それが貴女の本当の目……生まれつき持っていたけれど、本来ならば開く事もなく封じられていたはずの、魔女の目……」
真紅の目が限界まで開かれる。
その縁から涙が滲む。
「や……やだ……何、何これ……? 何なの? どうして私がこんなに『視られて』いるの……!?」
その言葉に周囲を見た私は、叫びそうになった。
いつの間にか、壁にも天井にも、床にさえも数え切れない数の人間の目が浮かんでいたのだ。
青い目。
黒い目。
緑の目。
茶色い目。
大人の目。
子供の目。
男の目。
女の目。
それら全てが、魔女アナスタシアの額の瞳を『視て』いた。
彼女の視神経にこれまで受けた『力』を注ぎ返していた。
もしかすると、あの廃教会で私が殺した獣の瞳もあるのかもしれないが、私には分からなかった。
ただ、彼らの怒りや悲しみや恐怖といった感情だけが、一つの生命体のようにそこに存在しているのが分かる。
皇女の額の瞳はその瞳達から逃れようにも逃れられない。
青い瞳からも涙がとめどなく流れている。
そしてその涙は赤くなり、やがて瞳そのものがドロリとした液体に変わり眼窩から滴り始めた。
邪視返しのため娘に嵌め込まれたロシア皇帝の瞳は、娘のドレスの染みと化す。
「ひッ!? 痛いッ……! 熱いッ! やめて! お願いだからもうやめて!!」
何もない眼窩から、それでも血は滴る。
恐ろしい光景だった。
(メリッサがこれを見ないで済んで本当に良かった……)
だが、本当に恐ろしいのはそこからだった。
壁や天井の無数の目達が、少しずつ消え始めたのだ。
そして、
「いやぁぁぁッ!?」
アナスタシアの手の甲に、茶色い瞳がぱちりと開く。
次の瞬間、雪崩を打つかのようにして、壁や天井にあったはずの瞳がアナスタシアの全身に移っていた。
「目が! 目がこんなにッ! 嫌ぁッ! 中にもあるッ! 」
頬にも、首筋にも、狂ったようにして捲り上げたドレスの袖の下にも、皮膚が見えないほどの密度であらゆる人間の瞳が開いていた。
「あああああああああああ!! こんなのいやぁぁぁッ!!」
大きく開いた口の中に、緑色の瞳が見えた。
もはや人には見えないほどに変わり果てたアナスタシアの、絶望の叫びが廊下に木霊する。




