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毒の林檎

 まるで皇女の護衛隊かのように、背後から現れた獣達がずらりと整列する。

 その光景は、一葉の古い写真のように威厳すら漂わせている。


(コイツら、強い……!)


 多分、彼らは自ら志願して異形になったのだ。

 トゥーレ協会を、そしてロシア最後の皇女アナスタシアを護るために。


「ウ……ウゥ……ッ……」


 思わず零れ出た声は、まさに獣の唸り声だった。


(これが……獣化……!?)


 二足歩行は出来ても、声帯は全く別の物に変わっているのだ。

 分かってはいても、実際になってみるとまるで悪い夢でも見ているかのような不快感に襲われる。


(いずれにしても念話の回路は死守しないとまずいって事ね……それにしても、自分で言うのもなんだけど酷い声だわ……)


 つい咽喉元に当ててしまった自分の手は、もう見慣れたそれではなくなっている。

 毛むくじゃらで爪は長く伸び、指の関節は太く硬く変形し、フルンティングを握るのがやっとという感じだ。

 

(あぁ……本当に、私はもう人間ではないモノに変わってしまったんだ……)


 舌先でなぞった歯は全て鋭く尖り、人の皮膚など容易く引き裂ける事が嫌でも分かる。

 それでも、アナスタシアの獣化の術は、材料となる人間の形質を僅かに引き継がせる性質なのか、前に見た獣よりも鬣も尾も黒く、たなびくほどに長い。


 何よりも、毛皮に覆われているとはいえ、胸元にはしっかり二つの盛り上がりがある。


(……筋肉のせいか、普段より大きいように見えるけど……こんな姿じゃ嬉しくないなぁ)


 しかし、腰から下は完全に狼の後ろ脚だ。

 床に突き刺さらんばかりの黒い鉤爪は、恐らく一蹴りで人の肉など簡単に切り裂けるだろう。


 だが、この異形への変化は今の私にとっては大きな利点となる。


 全身の骨と筋肉は人間の域を越えた強靭さを湛えている。

 皮膚は分厚く硬くなり、その上を更に幾重にも体毛が覆っている。


 何よりも、大きな心臓がもたらす強い脈動が、これは戦うためだけの肉体なのだと私に教える。


(この感じだと、負傷しても再生が速そうだな……痛覚自体はあるからあまりハデな傷は避けたいけど)


 以前の戦闘の時には、私は噛まれ引き裂かれるだけの脆弱な肉体でしか獣に立ち向かえなかった。


 だが、自らが同じく獣となる事で、私は鎧を得たようなものだ。

 ----というのは言い過ぎで、肉弾戦をやったら圧倒的に不利なのは前回となんら変わりはないのだが。


(まぁ、敵の数が十倍になってるとしても、こちらの防御も……まぁ、3倍くらいにはなったでしょ)


『アイリス……お前、言葉は分かるのか?』


 私の様子を観察していたアンソニーが、恐る恐るという感じで聞いて来る。


『ちゃんと敵と味方の区別はついてるんだよな?』


 横に立たせたメリッサの目隠しは取らないままだ。

 この無神経男でも、さすがにそこら辺の配慮は人として最低限はできるらしい。


『おじさんが不味そうなのは分かるワン!』


 そう答えると、法王は眉間に深い皺を寄せて素早く十字を切りやがった。

 和ませてあげようとした人の気遣いを何だと思ってるのか。


『冗談よ……ちゃんと意識はあるから大丈夫。いきなり噛み付いたりとかはしないから……多分ね』

『当たり前だ。そんな事したら銀の弾を腹いっぱいになるまでお見舞いしてやるからな?』


 ここまで身体を張っている部下(いや備品だけど)に対してあまりにも酷い言い草である。


『それ、あのアナスタシアが死ねば戻るんだろ?』

『だと思うけど』


 魔女が死ねば、その術は全て解ける。

 いや、解けてくれないと困る。


『もし戻らなかったら面倒だ……ラボで解剖に使うとしても特注の檻を用意させなければならんしな』


 え、実験に使うの前提?


『アイリス! 頑張って!』


 メリッサの健気な声援が余計に胸に沁みる。

 ここで人間の心を持ってるのは、もしかするとこの子くらいしかいないんじゃないのかしら。


『あの、今更だけど……彼女アナスタシア、なんか正教会によって聖人に列せられてるそうだけど……』


 どこまで話を通してあるかは知らないけれど、今からやる事は、私達バチカンから見ればいつもの魔女殺しだ。

 だが、正教側からすれば聖人殺しという大罪になる訳で----。


『でも、殺っていいのよね?』


 私の一太刀が世界最新の宗教戦争の火種になってしまうのは、さすがに寝覚めが悪い。


『当たり前だ! ルビコンどころか、こちとらコキュートスまで渡ってんだ! ロスケの聖人の一人二人ブッ殺すのに何の遠慮が要るんだ?』

『そ、そうね……』


 よし、これで法王様直々の御命令だという事を、後でちゃんと証言できる。

 私は一応確認しましたからね?


『ましてやナチスの魔女になっちまった聖女様を大金使って始末するんだ。アイツらに出来るか? 無能の癖にプライドだけはウラル山脈よりも高いあのイワン共に出来ると思うか!?』

『分かった分かった! 分かったわよ!』


 金が絡む話になると、この男はネジが飛びかける。

 最近は、シャイロックの霊が憑いてるのかと半分本気で思うようになってきた。


『こっちが礼金を貰いたいくらいだ……お、そうだカーラ、シヴァの管理している金は口座情報が無効になる前に残らず空にしとけよ! 1ユーロたりとも残すな!』

『了解しました』


 うわ。


 この悪魔!

 銭ゲバ!

 火事場泥棒!

 追い剥ぎ!


 えーと、それから----。


 心の中で現職法王に罵声を浴びせ続けている私の顔を見上げながら、皇女は手を叩いて子供のようにはしゃいだ。


「いい感じになったじゃないの……何にもできない魔女なんかよりも、貴女にはその姿がお似合いよ?」

「……ウゥッ!」


 唸り声しか出せない私を見て、自分の術は成功したと判断したのだろう。


「それじゃ、楽しいサーカスの始まりね」 


 アナスタシアは頬さえ染めて両目を細める。

 それに比例して、額の瞳の輝きが強さを増した。


 私の視界がぐにゃりと歪む。

 頭の痛みが加速度を増す。


「よし! 決してあのアナスタシアには手を出すな!」


 アンソニーが部下達に指示を出している。


「あくまでも獣の足止めだけに専念しろ、ヤバくなったらアルファを盾にして存分にやられてもらえ! 今日のお前達の仕事はこの腐れ魔女におんぶに抱っこに肩車してもらう事だ! 死体袋に入って帰還する事ではない! 分かったな!?」

「了解!!」


 誰にも何の躊躇もない。


 そうだ、これが庭園管理局の戦い方なのだ。


 私は法王の剣であり、そして法王の兵の身代わりでもあるバチカンの魔女なのだ。


『カーラ、我々全員の回線が持つのはどのくらいだ?』

目標アナスタシアの能力が判然としないので想定数値にブレがありますが、三分と思って下さい。それ以上は、獣を一体倒すたびにアイリスが脳にハックを受けるリスクが高まります』


 そうなのだ。

 この作戦の唯一にして最大にして欠陥は、私が獣を倒すたびに、アナスタシアの私への精神干渉が強力になるという事なのだ。


 だから、短時間で勝負を付けなければならない。


「ウ……ッ、ウォォォッ!」


 天を仰ぎ、雄叫びを上げる。


「さぁ、自分の敵が誰なのかは分かるわよね?」


 慈悲に満ちた笑みで、アナスタシアは私を片手で手招きする。


「憎いでしょう? 殺したいでしょう? 滅ぼしたいでしょう? 私達魔女にはその権利があるのよ……人間を、神を、神の名を借りて私達を殺した者も、神を否定して私達を殺した者も……全ての者に復讐する権利があるのよ?」


 復讐。

 それはなんて甘美な響きなんだろう。


 煮え立つような頭の中で、私はぼんやりと考える。


 それは毒の林檎のようなものだ。


 禁断の果実を一口齧れば、あとはもう自分を止められないだろう。

 そう、この眼前の少女のように。


 これは、魔女ですらない。

 魔女の成れ果てとでも呼ぶべき、『何か』でしかない。


 だから、私は返事の代わりにフルンティングを振り上げると、跳躍した。

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