魅眼
ラスプーチンになる前の少年グリーシャは、肺炎からの回復後は時折起こす原因不明の号泣以外は特に問題のない子供として、村というささやかな共同体で静かに暮らしていた。
『だが、彼には『力』があった……そう、魔女としての能力が発現していたんだ』
『一家の中では彼だけ? 他には?』
私と法王の念話は、アナスタシアと対峙しながらもまだ続いている。
もちろん彼女も、彼女への攻撃命令を待つ隊員達も私達の会話には気付かない。
『彼の先祖についての記述はほとんどないが、父方の方も母方の方も普通の人間だったようだ。ただ、気になるのが彼のラスプーチンという姓そのものなんだが……まぁ、今はその話はいいだろう』
ラスプーチンの名を出されて一瞬強張らせた皇女の頬がまた元に戻るまでの間、私の脳内では無数のシナプスが放出され、融合し、光を放っていた。
今の私はそれを感じる事ができる。
脳という器官の素晴らしさと不可思議さ、そして恐ろしさを、私達は身をもって知っている。
それを操る魔女の『力』の恐ろしさと、魅力も。
『父親は強権的だったが平凡な農夫だった。母は穏やかで優しいが同じく平凡な農婦だった……家事を手伝っていた妹は、奇しくも兄のミーシャが溺れたのと同じ川で洗濯中に流されて死んだ』
「……貴方達も、同じね」
沈黙に我慢がならなくなったのか、アナスタシアが軽蔑するように鼻を鳴らした。
「誰もが彼を田舎から出て来たインチキ僧侶だとバカにして、それを信じた私達一家を愚か者と笑っていたわ……お前達のせいで国がおかしくなった、お前達のせいで人民は貧しくなって苦しんだ、ってね」
「いや、彼がインチキだとは思ってはいない」
アンソニーは首を振る。
「お前の母親アレクサンドラ・フョードロヴナはドイツのヘッセン大公国の流れを引く血筋ゆえ、対ドイツ戦の前後の間ドイツ女と国民から疎まれていた」
突然母親の名前を出されて、皇女は怪訝な顔になった。
アレクサンドラは、ヘッセン大公ルートヴィヒ4世とイギリスのヴィクトリア女王の次女アリスの間の四女ヴィクトリア・アリックスとして生まれた。
代父母はプリンス・オブ・ウェールズ(後のエドワード7世)夫妻、ロシア皇太子(後のアレクサンドル3世)夫妻であったが、母が35歳で死去した後、6歳から12歳まで祖母ヴィクトリア女王に育てられたた。
1884年、サンクトペテルブルクで行われた姉エリーザベトとアレクサンドル3世の弟セルゲイ大公の結婚式で、皇太子だったニコライと出会うが、当時、ロシア正教会には皇后は正教徒に限定するという規定があった。
「そのため彼女は亡き母と同じくルーテル教会を信仰していたが、それを捨て、ロシア正教へと改宗している。だからこそ修行僧であるラスプーチンを手厚くもてなし、相談相手にしたのは当然の事だ」
アンソニーは淡々と語る。
これは彼自身の知識なのか、それともマヌエルがこれまでに集めてきたの記憶なのか。
それでも、その当時のロシアの混乱を、ヨーロッパ大陸の不穏な空気を、私はここに居ながらにしてまるで見て来たかのように感じる事ができる。
人類の記憶の残滓が、淡い輪郭を持って私の周りで現れては消えていく----。
「さらにはお前の母親は事故に遭い、危篤状態に陥り終油の秘跡まで授けられてあとは心臓が止まるのを待つだけだった……そんな絶望的な状況から彼女を生還させたのは、他でもないラスプーチンだ」
「……じゃあ、彼の能力を信じるって事?」
黙っていたアナスタシアは、ややしばらくして青い瞳を疑い深げに光らせた。
「ああ、他にも彼は少年時代には既に村の馬泥棒を現場を見ずに的中させたりと、いわゆる透視の能力を持っていたのは確かだ……人間観察に優れていたというのを差し引いても、その『力』は、そうだな……魔女並みだ」
魔女、という言葉に、アナスタシアはピクリと反応する。
「何言ってるのよ、彼は男よ? 魔女なんかな訳じゃないでしょ!?」
「男の魔女だっているさ」
アナスタシアの眉が跳ね上がった。
「何が言いたいのよ?」
アンソニーは車椅子の少女に向かって指を指す。
いや、正確にはその少女の額に向かって。
「ラスプーチンは風貌こそは怪しげだったが、世界の様々な神秘主義を学び、その根底に流れる真実に気付いたのだ……この世界には、アトランティスに起源を持つ、人類とは別の種類の種族が僅かながらも生きていて、その一人が自分であり、自分はその流れを復活させる『力』を持っているのだ、とな」
「……アトランティス? 人類とは別の種族?」
そう言って、皇女は口元に手を当て、クスクスと嗤った。
「……結局は、バチカンも正教会も同じモノを欲しがるのね」
「ナチスもな」
アナスタシアの青い瞳が爛々と光った。
「それだけじゃないわ……様々な人間や機関が今でも私の行方を捜している」
それは自信と誇りに満ちた声だった。
アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァにしか出せない、皇女の声だった。
「何故なら、私こそが青き薔薇の正統な後継者だから」
同時に、額にかかっていた金髪を掻き上げる。
「……それはッ!?」
白い白磁の額の中心に、縦長の目が見開かれていた。
それは、沈む太陽の最後の一筋のような、強く、魂を引きずられそうな濃い金色の光----。
「これがヤツの魅眼か!」
場の空気が一瞬にして変わる。
それは、音のない戦闘の始まりだった。
誰一人として動かず、声を出さず、ゴーグル越しに魔女と対峙する。
魅眼の魔力に、近代兵器が抗している。
「……ッ!」
最初に異変を感、ゴーグルを着けていない私だった。
(な……何これ? 頭がぼーっとして、何も考えられなく……)
身体を動かそうとしても自分の物でないようにぎこちない。
唾を飲み込もうと思っても、上手く咽喉を通らない。
なのに、黄昏の最後の輝きのような瞳から、視線を引き剥がせない----。
私はそれでも本能的にメリッサの目を両手で塞いでいた。
「アイリス? 大丈夫?」
メリッサが心配そうに聞いてくれる。
「大丈夫……じゃないけど、何とか耐えられる……はず……」
見れば、特殊ゴーグルを装着しているアンソニーとその部下達は無事な様子だ。
それだけ分かれば取りあえず安心だ。
ここからは、魔女の時間だ。
(魅眼の力については分かった、でも……この子はどうやって人間をモンスターに変えられるの?)
人間を獣に変えるというのは全く別の能力のはずだ。
それなのに、魅眼持ちの魔女アナスタシアはそれをやってのけた。
「メリッサ、アンソニーの所にいなさい」
スーツの片袖を歯で噛み千切り、簡易な目隠しを少女の顔に巻く。
魅眼避けと言う言うよりは、これから起こる事を見られたくないという私の気持ちの問題だ。
『さっき来ていたトゥーレの兵士達は?』
『奥のドアの向こうで待機しているようだ』
私は頷いた。
『今から私もアレになるから、皆にはあまり近付かないように言っておいて』
『大丈夫なのか?』
お、一応心配してくれるんだ。
『正気を失ってこっちに向かって来たりでもしたら、ハチの巣にして後でテべレ川に流すからな』
『あらロムルスとレムスみたいでロマンチック』
コイツ、本当に部下の心配しかしないな。
まぁ、何されても死なない魔女よりは普通の人間の部下を心配するのは仕方がない訳で。
「う……頭が……痛い……ッ」
私は大げさに呻きながら足取りでアナスタシアに近付く。
これは賭けだ。
アナスタシアが私を獣にしてみたいと思うかどうかの演技だ。
(いや、実際めちゃくちゃ痛いんだけど)
「でも……この剣さえあれば、どんな敵でも屠って見せるわ……皇女様」
「その理性が残っていればね」
案の定、アナスタシアはニッと唇を曲げる。
「いくら惨めなバチカンの忠犬とはいえ、本物の獣になったら主人に牙を剥かないでいられるかしら?」
「あら、ローマでの作戦に失敗してこんなド辺境に繋がれている駄犬の癖によく吠えるわね」
私とアナスタシアの視線が激しくぶつかり合う。
「いいわ、貴女も獣にしてあげる……いつまでそんな口がきけるかしらね? なりそこないの、生意気な魔女アイリス?」
アナスタシアの額の金色の瞳が、怪しく煌めいた。




