バーバヤーガ、かく語れり
最後の一枚だと思っていた第四層の白い扉は、その中に更に滑らかな質感の円筒形の部屋を隠していた。
大きさは、ちょっとした農村の礼拝堂くらいだろうか。
その天井は見上げる程に高く、第四層の天井と一体化している。
窓も表示も何もないそれは、部屋というよりは巨大な純白の繭のようにも見える佇まいだった。
(何よ、これが……この施設の心臓って事なの……?)
その円筒形の部屋以外には、見事に何もなかった。
椅子も、機材も、モニターも何もない、只のつるりとした塵一つ落ちていない廊下が円筒形の部屋をぐるりと一周している----第四層はそんな空疎な場所だった。
だからこそ、私の項の毛は逆立つ。
敵陣の中枢を前にしているという感覚で、鳥肌が治まらない。
そして-----。
キィ----。
キィ----。
部屋の向こうから規則正しく聞こえてくる音が、まるで止めのように私の背筋を凍らせる。
絶対に間違える訳がない。
あの音は----車椅子の車輪が軋む音だ。
只の車椅子ではない。
アネモネ専用の、車椅子の音だ----。
キィ----。
キィ----。
凍り付く私を嘲笑うかのような、甲高い金属音。
硫黄の匂いが、その濃さを増してくる。
地獄の気配が、私を呼びに来ている。
『いや、そんなはずは……だって、アネモネは……!』
念話に切り替えるだけの判断ができたのが不思議なくらいに、私は動揺していた。
『落ち着け! あれは別の魔女だ。一仕事を終えて地上から戻って来たんだ!』
私を一喝し、アンソニーが隊員達に指示を出し始める。
『余計な事に気を取られずに敵に集中しろ!』
『分かってるわよ』
平和と対話などと日頃から信徒に説いてる法王は、此処にはいない。
いるのは、ただ魔女を狩る猟犬の飼い主だ。
神も天使も何の役にも立たない。
今この場所で役に立つのは、敵を切り裂く牙のみだ。
本当は誰もが気付いている。
そう、大きな平和を保つための努力は、その守るべき平和の規模が大きくなるのに比例して、大規模に、秘密裏に、そして血生臭く行われる----神に祈りを捧げる人間の手で。
「出て来なさいよバーバヤーガ!」
まだ姿を見せない獲物に向かい、私は吠えた。
決して法王の忠犬などではない。
ただ獲物を狩るためだけの本能で理性を消し去った猟犬として。
アネモネを騙ろうとした魔女へ、吠えた。
「貴女の相手はここよ!」
キィ----。
キィ----。
キィ----。
円筒形の部屋の影から、見覚えのある車椅子に乗った少女が現れる。
瞳は前髪で半ば隠れているが、背筋はピンと伸ばされている。
少女は私達を見ると、まるで使用人でも見るかのような薄い笑みをその唇に湛えた。
(……やっぱり、アネモネじゃなかった)
安堵の思いは、私を戦闘態勢へと切り替えさせる。
私はメリッサの手を握り、後ろに隠れさせた。
次に指示するまでは絶対に私の後ろから出ないようにという、二人だけのサインだ。
(魅眼持ちと聞いたけど、隠している方の目なの……?)
少女は薔薇色のドレスには似つかわしくない黒い眼帯を右目にしていた。
いや、そもそもこの場所にドレスが似つかわしくないと言えばそれまでなのだが。
「……ようこそ地獄の最下層へ、裏切者さん」
歳は、私とほとんど変わらないように見えた。
背丈は、車いすに座ってる状態でも私より低いのが分かる。
腰まで緩く伸びた髪の色は赤みがかった金髪で、サイドで編み込まれている。
(ロシア人か……でも、この顔、どこかで見た覚えが……?)
美人の部類ではない。
だが、彼女のよく光る青い瞳を見ていると、片目だけだというのに吸い込まれそうになる。
(……え? こっちが、魅眼なの!?)
思わず仰け反りかけた私に、金髪の少女はニヤリと笑って見せる。
「裏切者は定石通りコキュートスで氷漬けにしてあげるのもいいけど、私は久し振りに血が見たい気分なのよね……特に、貴女には以前煮え湯を飲まされたし」
煮え湯云々とは、あの廃教会での敗北の事を言っているのだろう。
あの後彼女が組織にどんな『仕置き』をされたのかは、精神衛生上想像しない方がいい。
「まぁ、それは別に大した事じゃなかったからいいのよ」
前髪の間から私の様子を窺うようにして、少女は小さく笑う。
これからどんな悪戯をしようかと、頭の中をアイデアで一杯にしている子供のような無邪気さで。
「それから、私はバーバヤーガなんかじゃないわ」
少女はおもむろに眼帯を引き剥がした。
全員が瞬時に銃を構えた----が、その瞳は左目と同じ明るい青だった。
そして-----何も起こらなかった。
「ほら、大丈夫でしょ?」
虚を突かれた私達を嘲笑うかのように、少女は唇に手を当てた。
「だって私はあんな醜い年寄り魔女なんかとは違うんだから」
さも重大な秘密を打ち明けるかのような目付きになる。
「私の名前は、アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァよ」
一瞬、私は彼女が何を言っているのか理解できなかった。
「……アナスタシア? まさか貴女……!?」
そんなはずはない。
最後のロシア皇帝の末娘は1917年の二月革命で成立した臨時政府によって家族とともに監禁され、翌1918年7月17日にエカテリンブルクで家族・従者とともに17歳で銃殺されている。
17歳----私と同じ歳だ。
それはツングースカ大爆発の、ちょうど十年後だ。
そして初めての現地調査の三年前に当たる。
あり得ない。
そんなはずはない。
そう思いながらアンソニーの顔をそっと窺った私は、息を呑んだ。
「……そう、私はあのロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の第四皇女よ」
「でも、銃殺されたって……」
私の乏しい知識でもそのくらいは常識とされている。
「家族全員、料理人に至るまで全員殺されたと記録されているはずよ?」
「……アナスタシアの遺体のみは、バラバラに切断されて焼却されているために死の原因の究明は不可能となっている」
私の反論に、アナスタシアはまるで教科書を暗唱するかのような口調で答え、フッと笑った。
「私の死体だけが、切断されて焼かれたの……貴女になら、その意味は嫌と言うほど分かるわよね? ね?なりそこないの魔女さん?」
アンソニーは、無言で天を仰いでいた。




