播種
「今から『種』を二つ撒きに行く。ルートは確保されてるな?」
『問題ありません。第四層前にてお待ちしております』
秘匿通信だろうが特殊な波数だろうが、私の耳には(いや正確には脳なんだろうけれど)法王庁側の全ての通信が入って来るようにされているようだ。
今アンソニーが話している相手は多分、処理班の隊長だろう。
声に聞き覚えがある。
「……かなり大規模な作戦みたいだけど、大丈夫なの? ここって……法王庁の縄張外でしょ?」
ここはロシア----数千万人規模の信徒を抱えるロシア正教会の本拠地である。
ソ連邦時代には一貫して弾圧を受け続け、大多数の聖堂を破壊され、聖職者・修道士・修道女・信徒が虐殺されるなどの甚大な被害を受けたものの、ソ連邦崩壊後には復活を遂げ、世界最大の独立正教会組織となり、その規模は信徒数で第二位の独立正教会組織であるルーマニア正教会を大きく引き離している。
管轄地域は今やロシア、ベラルーシ、ウクライナ、カザフスタンをはじめとしたソ連邦に構成していた諸国のみならず、海外のロシア正教会系の教区に及んでいる。
いくらバチカンとはいえ無碍に扱えるような相手ではないはずだ。
「ああ、その事なら、モスクワの総主教は了解済みだ。ボロくなった至聖三者聖セルギイ大修道院の修復費用を援助すると言って手打ちにさせた……あそこは信徒が多いとほざいてる割りには貧乏人のイワン共しかいないからな」
つまり、これから他人様の庭に入り込み札束を握らせて、そこで始まるドンパチを見て見ぬ振りをさせるという事である。
「さすがは昔から隠し財産を巡って人死にが出ているバチカン様ね。やり方が汚い」
「人聞きが悪い事をほざくな……金とはこういう風に使うものだ」
ずんずんと歩くアンソニーの後ろから私とメリッサがついて行く。
あとは誰も来ない。
振り向いたらもう私達の入っていたカプセルの影も形もなかった。
(……こんなとこに連れて来るならコート位用意しておいて欲しかったんですけど)
タイガをこのまま歩いて抜けるのかと思いながらうんざりしたその時----その建物は、忽然とタイガの中に現れた。
建物といっても、観測所とかそんな感じの人の気配のないコンクリート製の小屋だ。
鉄の扉の横にロシア語で何か書かれたプレートがある。
「これはただの入口だ。我々はここからずっと地下に潜ってスースロフの漏斗の下まで到達する」
ドアの前には幾つも新しい足跡が残っている。
先遣隊のものだろうか。
小屋の中はがらんとして椅子一つない。
床には取手付きの大きな蓋が鎮座しているだけだ。
それを開けて、冗談みたいに急傾斜の階段を下りた所でアンソニーは鉄扉を開いた。
「で……これに乗るの?」
目の前にあったのは、赤錆に覆われた長方形の台車(トロッコというのだろうか?)と、緩やかな傾斜で闇の向こうまで続くレール。
「え、怖い……」
メリッサが年相応の感想を呟く。
私もごくりと唾を飲んだ。
「旧ソ時代の遺物だが、一応人間も乗れるぞ」
「一応って……」
見れば、取り付けられた板にロシア語で何か注意書きらしきものが書いてある。
「鉱物積載用、積載量厳守としか書いてないな」
そう言いながらアンソニーは枠を掴み、ひらりと飛び乗る。
「ロシア語、できるの!?」
「……多少分かる程度だ」
嫌そうな顔のメリッサを抱き上げてアンソニーの横に立たせ、背中のフルンティングを引っ掛けないように注意して私もトロッコに飛び乗る。
アンソニーが外側のバカでかいハンドルを力いっぱい押し下げると、ガコン、と音を立ててトロッコは暗闇の中を動き出した。
「……これ、途中で止まらないよね?」
メリッサが全身を使ってしがみ付いて来る。
ゆっくり頭を撫でてやりながら「大丈夫」と答えると、少しは落ち着いたのかあとは静かになった。
「予定通りあと一分ほどで第一層入口に到着する」
腕時計に目をやりながらアンソニーが通信している。
『今のところ魔障級及び超常級の磁気異常は、第四層前でのみ観測されております』
「そのまま観測を続けるように伝えとけ……数値に変化が出たらすぐに報告しろ」
磁気異常。
魔女がいる証拠だ。
第四層----そこにアネモネがいるのだろうか。
(いや、アネモネの身体……か)
あの聖杯神殿での痛々しい姿を思い出して私は唇を噛む。
それでも、連れ出してあげたい。
助けてあげたい----。
ゴトン、と音を立ててトロッコが止まった。
いつの間にか終点まで来ていたらしい。
「着いたぞ」
その一言で、今度は両開きの鉄扉が開く。
施設のコントロールは全てこちら側で掌握できているようだ。
乗った時と同じように、アンソニー、メリッサ、私の順でトロッコから降りる。
「……!」
鉄扉の向こうには土が剥き出しになった巨大な空間が広がっていた。
まさに漏斗の如く、朝顔の花のように下に行くほど窄まるような形の、爆発痕----スースロフの漏斗の真の姿だ。
冷気が下から吹き上げて来て、私は身震いした。
ざっと見ても深さは1キロほどありそうだ。
工事用の貧弱なライトがまばらに取り付けられているが、そんなものでは底が見えない。
「ここを見付けたのがトゥーレの奴らだ」
「じゃあ、一般的にスースロフの漏斗と呼ばれているさっきのクレーターもどきは……ダミーだったのね」
どれだけの威力の爆発があればこんなに巨大な穴が穿たれるのか。
一体何がここで起こったのか----。
唖然としている私の目の前に、更に私を唖然とさせる物体が降りて来た。
「今度はゴンドラ!?」
勿論ただの大きな鉄箱だ。
錆びてはいないが、柵の高さも腰辺りまでしかない。
「アイリス……もう帰ろうよ……」
メリッサの目に涙が浮かんでる。
寒いのと怖いのとで、もうどう見ても普通の幼女だ。
「絶対無理でしょこんなの……」
落ちたら死ぬ、と言おうとしてさすがにやめた。
これ以上メリッサを怖がらせる訳にはいかない。
「これで降りたら後は第四層を開けて入ればいいのよね?」
「そうだ」
そうだ、それだけの仕事だ。
「下は見ちゃダメよ」
「……うん」
借りて来た猫という言葉が今ほど似合う時もないだろうというくらいに大人しく、メリッサが頷く。
(……後でいっぱいご褒美あげるからね、ごめんね)
心の中で慰めながら私はしがみ付く少女をギュッと抱く。
私達が乗り込むと、ゴンドラは滑るように動き出した。
「今のところは予定通りだな……ミサのキャンセルはしなくてもよさそうだ」
「それは良かったわね。私も早く終わらせて外の空気が吸いたいわ」
メリッサを安心させてやりたくて、私もわざと明るい声で軽口を叩く。
第四層を開け、アネモネを救出し、多分その第四層(ラボに近い感じの設備だろう)には設置されているであろう近代的なエレベーターなりでそのまま地上に出る----簡単な手順だ。
そこまで考えて、不意に気付く。
ここはトゥーレ協会の、恐らくは最北の施設だ。
人員は割けず、代わりにAIでアネモネを管理している。
だから第三層までの制圧は簡単に終わった。
でも----。
「アンソニー、今第四層前で観測されてる魔障級及び超常級の磁気異常って、本当にアネモネ本人のものなの?」
私を見た法王の顔が険しくなった。
「どういう意味だ?」
「だって、ここがもしトゥーレにとって貴重品のある別宅みたいなものだとしたら、番犬くらい……」
その言葉が終わらないうちに、突然通信網が騒めき出した。
「どうした!?」
あちこちから通信が飛び込んで来る。
『上空に所属不明の機体を発見! 降下中です! 指示を!』
『磁気の異常範囲が移動しています!』
その意味を、私もアンソニーも同時に悟る。
いるのだ。
魔女が----この近くに、もう一人。




