第七部 ロシアより愛をこめて
ドシュッ、という鈍い響きと共に、私の身体は微かな衝撃を受け止め、恐らくはどこかの地表に投下されたのだと気付く。
(えっと、……これは、多分、現実……かな……?)
<目標地点に投下完了>
<バックアップ班は持ち場にて待機>
オペレーター達の交信が慌ただしい。
<外観、内部構造共に異常なし。これより『棺桶』の封印解除に入る>
<全員カプセル周辺より退避せよ>
人一人がやっと立っていられるような仄暗く細長い装置の中にいると、まるで自分が何かの植物の種になったかのような気分になる。
そう、私は遠くローマより空を飛んで運ばれて来た魔女の種----ストライガの種だ。
両腕と首筋に差し込まれていた細いケーブルのようなものが、しゅるしゅると抜かれていく。
私はこれでネットと繋がっていたのだろうか。
さっきまでの出来事が、全て夢のようだ。
(いや、あれもまた一つの現実……私はそこから戻って来たんだ)
低いモーターの音にオペレーター達の緊張した声が重なる。
<ロック開きます>
<全員詩編を詠唱せよ!>
やはりこの近代的で奇妙な乗り物も、法王庁による封印がされているのだ。
ご苦労な事である。
<主は私の魂を生き返らせ、御名のために私を義の道に導かれます>
詠唱が湧き上がる。
お馴染みの、詩編23編だ。
「主は私の魂を生き返らせ、御名のために私を義の道に導かれます」
久し振りに出した声は、少し掠れていた。
私はどのくらいあの場所(聖杯神殿)にいたのだろうか?
数秒?
数時間?
感覚が麻痺している。
百合の花を胸に突き立てられたアネモネの、驚愕したような表情が脳裏にこびり付いている。
(いけない、頭を切り替えるのよアイリス)
「主は私の魂を生き返らせ、御名のために私を義の道に導かれます」
目の前の扉が、ゆっくりと両側にスライドし始める。
じりじりと、まるで鳩を出す手品師のような勿体を付けて。
(寒い……)
扉から流れ込んで来た冷気に、私は眉を顰めた。
この近代的な棺桶は、私を一体何処に連れて来たと言うのだ。
そもそも、乗り込んだ記憶が全くない。
(あのラボから電脳空間に繋がれてたと思っていたけど、どうやら私は初めからこの中に入れられていたようね……)
単に欧州のどこかなら、こんな大掛かりな空中移動はさせられないはずだ。
魔女は海を渡れない。
だから、ここはローマから遠く海を渡ったどこかなのだろうか?
(いや、それならこの寒さは何なの?)
「主は私の魂を生き返らせ、御名のために私を義の道に導かれます」
ひたすらに詩編を唱えながら、私は扉の外の光景を見ようとして目を細めた。
(一体、ここは……何処?)
こうしているだけでも、背筋がゾクゾクしてくるのが分かる。
普通の土地ではない事を、私の血が教えてくれる。
右掌が、じんわりと熱を帯びて来る----。
(フルンティングが近くにいる……!)
まだぼんやりと霧のかかっていた頭が、やっと目覚めた。
私の頭が、身体が、戦闘モードに移行していく。
作戦が、始まるのだ。
今度は電脳世界ではなく、現実の世界で。
(……ここは!?)
開き切ったカプセルの扉の向こうに見えたのは、巨大なすり鉢状の地形だった。
荒れ果てて草の一本も生えていない、クレーターだ。
空はどんよりと曇り、太陽の位置も分からない。
<封印解除完了!>
その声に押されるようにして、私はカプセルから出た。
「何なの、ここ……?」
思わず呟き、そして隣に立っているもう一つのカプセルを覗き込む。
「わ、アイリスだ!」
勢いよく飛び付かれて、私はその重みを確かめるようにギュッと抱き締める。
「私、ちゃんとやったよ?」
「うん、すごかったね」
仮想空間とはいえ神殿一つを潰し、その中心の聖母を消し去ったとは思えないような軽いやり取りを交わした後で、私はメリッサに尋ねる。
「で、ここは何処なの?」
「知らないよ?」
キョトンとした顔で、少女は首を振った。
「なんか、何とかの家、って呼んでたけど」
家?
この荒れ果てたクレーターが?
『暗号名バーバヤーガの家、だ』
アンソニーの声が割って入る。
『バーバヤーガ……スラヴ民話の妖婆ね。鶏の足の上に建てた小屋に棲むっていう』
『そうだ、バーバヤーガとはスラヴ神話における冬の擬人化と言われているが、要するにロシアの魔女だ。スラヴ人がキリスト教に改宗するまでは善き存在として語られる事も多かったが、後年は西洋の魔女のように人間に害をなす存在とされていった憐れな古代神の一人だよ』
こういう話をする時のアンソニーの声には、気が付かないほどに僅かな憐れみの色を帯びている。
『で、本当にここにそのバーバヤーガが棲んでたの?』
『いや、それ以上の化け物がいたんだ……100年以上前にな』
私はメリッサを抱くようにしてクレーターの底を覗き込む。
『そして、その化け物は(バケモノ)は更に成長して、今もこの下にいる』
『……じゃあ、『毒の生贄を捧げよ作戦』の本命は……』
右掌が、ドクンと脈打った。
『ああ、だからアレは囮作戦だ』
事もなげに法王が言う。
『今頃トゥーレの奴らは電脳世界の聖杯神殿の復旧に血眼になっているはずだ……で、これからが本物の作戦だ』
『作戦名は?』
少し間を置いて、アンソニーは答える。
『マトリョーシカ作戦だ』
『そういう事ね』
随分と危ない橋を渡らせてくれたものだ。
『まぁそう怒るなアイリス』
『私だけならまだしもメリッサにまで危険な真似をさせて……!』
しかも自分は安全圏から高みの見物ですか。
そう思った途端、背後から声が聞こえた。
「ようこそロシアへ」
そこには、特殊作戦装備に身を包んだ法王ピウス十三世が立っていた。




