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Por una cabeza

「その目を見ちゃダメ! 取り込まれる!」


 私が慌ててメリッサの目を手で覆いかけた時、


 くすくす。


 メリッサが笑った。


《ウィルスの種類、候補32種類にまで絞り込んでいます!同定まであと5……4……3……》

《侵食率急速に上がっています! 記憶領域の優先保護開始!》


 智天使ケルビム達の声が飛び交う。

 きっと、時間にすればほんの一秒もないはずなのに、彼らは物凄い処理速度でなんとか事態を解決しようとトライアンドエラーを繰り返しているのだ。


(お願い、頑張って!)


 祈るような気持ちでメリッサを抱え込むようにして抱く。


『カーラ!メリッサだけでもここから出せないの!?』


 確か脱出経路があったはずだ。

 一人くらいならなんとかならないのだろうか。


『既に2つ潰されました。残り一つは今アクィラがルートを死守してくれていますが、あと何秒持つのかは不明です』

『じゃあ、私達このままここで聖母に同化されちゃうって事!?』


 その間にも、聖母の揺らめく紫の瞳が、次第に深い青へとうつろい始める。

 私の瞳もまた、誘われるようにしてその色を変え始めるのが分かる----。


(見ちゃダメ……見ちゃダメなのに……)


 ああ、これが俗に言われる魅眼というものなのだろうか。

 私と同じ色のはずなのに、妖しく蠱惑的な揺らぎを湛えている。


「メリッサ、ごめんね……これじゃ、あの時と変わらないよね……」


 80年前のベルリンの地下壕で覚えたあの無力感が、再び私を雁字搦めにする。

 罪悪感に捕らわれる。


(……力が、抜けていく……)


 くすくす。

 くすくす。


 メリッサは、まだ笑っている。


 私に目隠しをされているのに、何一つ不安を覚えていないかのような声で。


『カーラ、お願い! どうすればいいの!?』


 返事は、帰って来ない。


 私の身体が、少しずつ透けていく。

 透けて、電子の世界へと還元されていく。


 電子の魔女に同化していく----。


《ウィルス同定完了! ワクチン注入開始します!》


 智天使ケルビムの声と共に何かが私の中に入る感覚があった。


 だが、もう復旧速度が間に合っていない。

 私の身体アバターは既に腰から下がパズルのピースのように分解され、光る粒子となって霧散してく。


「アイリス、さあ……私と一つになりましょう……?」


 白い聖母が、言った。


「私と貴女こそが新しいオリジナル……そんな無力で役立たずなな子供は捨てて、はじまりの魔女を継ぐ者になるのです……」


 とてもとても、優しい声。

 穏やかで、聞いているだけで身体の輪郭が溶けていくかのような、滑らかな蜂蜜のような声。


「私には視えます……私と貴女とで創る新しい世界が……どこまでも美しい世界が……」

『聞いてはいけませんアイリス! それはただの肥大して暴走したAIの妄想です!』


 カーラの声がまるで悲鳴のようだな、とぼんやりと思った途端、


「うふふ、やっと咲いた」


 メリッサが聖母の前に一輪の百合を、ずいと突き出した。

 それは、あの蕾だったはずの百合だった。


「……?」

 

 白い聖母が怪訝な表情になる。

 それはそうだろう。


 百合の花は全てデータの集積のはずだったのだから。

 そのデータはもう全て回収されてここには一本も残っていない----はずだった。


 なのに、その百合は、瑞々しいまま少女の手にしっかりと握られていた。


「さあ聖母様……私からの捧げ物、ちゃんと受け取ってね?」


 そう言うと、ついさっきまでとは別人のような俊敏さでメリッサは私の手を振り払い、磔にされた聖母の眼前に跳躍する。


「始まりの魔女は、全ての魔女の母であり、また娘でもある……!」

「……なッ!?」


 姿こそメリッサだったが、その朗々とした声はモルガナの声そのものだった。


「それこそがこの私モルガナ……そしてこの私と唯一一つになれるのは、私が自ら心臓を分け与えたこの者、魔女アイリスのみ……!」


 聖母の瞳が大きく開かれた。


 そこにあったのは、恐怖の色だった。

 女主人モルガナの怒りを全身に浴びて声すら出せない恐怖に身を震わせる、ただの一人の魔女だった。


 その唇は血の気を失っている。

 あれほど自信に満ちていた表情が、今は怯えた猫のようなそれに変わっていた。


「私とアイリスはこの地球ほしことわりの外にいる者……」


 モルガナの声だけが、白い廃墟と化したドームに、聖杯神殿に響き渡る。


「我ら二人のみが運命とやらの軛からは初めから自由なのだ!」


 メリッサ、いや、モルガナはゆっくりと百合の花を聖母の胸に突き立てる。

 

「そのような事すら分からぬ紛い物が! 私のアイリスに気安く手を出すでない!」


 私は息を呑む。

 白い聖母も、唇を震わせたまま自分の胸に突き刺された百合を見詰めている。


 その百合は、一瞬青く光ったかと思うと、青い稲妻の如き光を発して聖母の全身を貫いた。


「……ッあああッ!?」


 まるで断末魔だった。

 大きく仰け反った白い聖母は、咆哮するかのような叫びを上げながら一気に全身を崩壊させる。


 頭が、

 胸が、

 腰が、


 バラバラに砕けていく。


 さっきまで確かに生きていた存在が、光の粒子に還っていく----。


(あれはアネモネじゃない……だけど、単なるAIでもない……生き物と無生物の間のような、そんな不思議な……ひとつの人格だった……)


 達成感はなかった。

 妙な悲しみのようなものが、私の胸にどろりと蟠っていた。


『申し訳ありません……ウイルスの注入が予定より遅れました』


 カーラの声がまだ緊張を帯びている。


『ただ……同じヘクセン級AIとはいえ、魔女のコピーを取り込み、ここまで自律思考を成長させられるとは……私の能力不足です』

『ヘクセン級AI……?』


 カーラと同じようなAIを私達は相手にしていた訳だ。


『ヘクセン級AIは私を含め、世界中に二体のみ確認されています……そのうちの一体が、このシヴァでした』

 そういうのは先に言って欲しい。


(……って言っても、私にはどうする事もできなかったけど)


 今回の作戦は、メリッサがメインだったという訳だ。


(で、これでお終いなの……?)


 そう疑問が湧いたと同時に、メリッサが私の首に飛び付いて来た。 


「アイリス、起きる時間よ」

「え?」


 意味が分からなくてポカンとしている私の唇に、少女は口付けをする。


「これからが本当の作戦の始まりなんだから」


 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、突然遠くで誰かの声が聞こえた。


<降下三分前です。減圧開始、鎮静剤注入します>

<各自耐衝撃体制を維持>

<目標地点に敵の動きなし、座標再調整せよ>


 念話ではない。

 すぐ頭の側で聞こえる。


 首筋にチクリと痛みを感じたが、すぐに消えた。


(……あれ? 私、今どこにいるの?)


 急激に引力が戻って来る感覚に、私は目を開けた。


「ここは……!?」


 そこは、人一人がやっと立っていられるような狭い筒状の、いや、棺桶状のカプセルの中だった。

 私はいつもの黒いスーツを着て、ヘッドセットのようなものを頭に着けている。


『さて、囮作戦は終了した』


 アンソニーの声だ。


 どこから喋っているのか、機嫌は悪くない。


 それどころか、背後ではタンゴが流れている。

 人が死ぬかと思っていた時にいい気なものだ。


 やっぱり今度会ったら殴っておこう。


 『まぁ、首の差一つ、といったところだったけどな……まさにこの曲、Por una cabezaだ』


 念話でBGMまで聞かされるとは思わなかった。


 妖艶さと哀愁の漂うメロディが、いきなり激しい調子に変わり、また優雅なリズムに戻る。

 これのどこが『首の差一つ』なのかは分からないが、アンソニーはメロディに合わせて鼻歌を歌っている。


『アルゼンチンタンゴは素晴らしい。時に聖歌なんかよりも遥かに聖性を感じる時があると思わないかね?』

『そう?』


<降下二分前、コードは全てブルー。異常なし>

<現地の風速2メートル>


『昔は出稼ぎにきた男同士が酒場で激しく踊るような、そんな音楽だったそうだ。後は娼婦だとかな』

『へぇ』


 そんな事よりメリッサはどうしたのだ。

 多少イラつきながらそう聞こうとすると、アンソニーは察したのか、


『メリッサもいるぞ。隣の『棺桶』にな』と教えてくれた。

『で、これから私達何処に運ばれて行くの?』


<投下一分前。カウントダウン開始>


 投下----?


 そこで私は気付いた。


『もしかして……今からが本当の作戦、って訳……?』

『ああ、そうだ』


 バイオリンが切々と泣いている。

 

『で、作戦名は……ま、いいわ』


<投下開始!>


 顔も知らないオペレーターの声と共に、私は重力の消失を感じた。

 私の運命は地球ほしの法則から外れていたとしても、物理法則からは逃れられないらしい。


『行先はバーバヤーガの家だ』

『え? どこ?』


 聞き返そうとしたが、その声は法王によって遮られた。


『こういう時、何て言うか知ってるか?』

『知らないわよ』


 タンゴが止んだ。


 法王が少しだけ真面目な声で言う。


『神の御加護を(ゴッドスピード)だ』

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