フェニキアの紫
「それで……その天国が実在するという結論の根拠は?」
深い海の底の幻影を振り払うようにして、私は先を促す。
「ピウス十二世は1939年に考古学者チームを組織し、クリプタの学術調査を指示した」
「1939年……っていうと、ポーランド侵攻の年ね」
ポーランド侵攻は、1939年9月1日にドイツ及びドイツと同盟を組む独立スロバキアが、続いて1939年9月17日にソビエト連邦がポーランド領内に侵攻した事を指す。
これに対しポーランドの同盟国であったイギリスとフランスが9月3日にドイツに宣戦布告、第二次世界大戦の始まりとなった。
「ちなみにトゥーレ協会の方はこの二年前にフリーメイソンおよびその類似団体の活動の禁止に伴い、ゲルマン騎士団ともども解散した……というのは建前で、ブリル協会と共にナチス親衛隊に取り込まれる形でその活動を完全に秘匿させただけだ」
「つまり総力戦に転じただけって事? 天国の鍵のために……?」
見えない戦争は、バチカンとナチスの間で既にその火蓋が切って落とされていたのだ。
「……そこまでして手に入れようとしていたのね」
1939年は、時期的には開戦に向けて世界情勢が最も緊迫した時期だ。
そんなタイミングで法王自らの指揮で学術調査を開始したのは、偶然ではないだろう。
ピウス十二世は、法王登位以前は特別問題担当省次官補としてヨーロッパ諸国との政教条約の締結に深く関わっていた経歴がある。
それ以降法王庁外交の最前線で日々差し迫る大戦の影を察知しながら、ありもしない天国の鍵を呑気に探していたとは確かに考えにくい。
「それで、成果はどうだったの?」
「とりあえずの文化財的な意味では、まず紀元二世紀のものらしきギリシャ式記念碑が発見された」
なるほど、天下のバチカン大聖堂の地下なのだ。
掘れば何かしら古いモノは出て来るものだろう。
問題は、それが本当は『何』なのかという事だが----。
「トロパイオンの周囲には墓参の人々によると思われる落書きや願掛けの書き込みがあり、更にはそのトロパイオンの中央部から男性の遺骨が発掘された」
「それがペテロでした……という結論だったの?」
その遺骨が後生大事にでっかい鍵を抱えていました----みたいな分かりやすいオチのある話であれば、まぁ、トゥーレ協会が今日までバチカン周辺を嗅ぎ回っている必要はない訳で。
「結論から言うと、ペテロだった……という事に一応はなってはいる」
この男にしては歯切れの悪い答えだ。
「でもそんなの状況証拠だけしかない訳でしょ? 実際はどうだったのよ?」
私は肩を竦める。
「鑑定の結果遺骨の男性は紀元一世紀の人物で、体格の良い六十代の人物だった」
「年齢的には合致してるわね」
当時の六十代というと、かなり長生きした方なのだろう。
白髭の老人というイメージは、案外空想の産物というものでもないのかもしれない。
「紫の布で包まれて丁寧に埋葬されている事からして、身分が高いか、もしくは非常な尊敬をもって扱われたと推測されている」
「紫の布……!?」
私は思わず声を上げる。
なんだ、現物の鍵なんかよりもずっと分かりやすく確実なメッセージが添えられていたんじゃないの。
「それって、貝紫だった……!?」
「そうだ」
もしその布が貝紫と呼ばれる色で染められていたとすれば、それは『フェニキアの紫』だろう。
三千六百年前にフェニキアで作られたこの色は、アッキガイ科の巻貝から僅かに抽出されるもので、交易を通じてエジプトやローマ、更にはイスラエルにまで伝えられた。
「高価で高貴な『フェニキアの紫』は、古代世界においては王しか身に着ける事ができなかった色だったんでしょ?」
「あぁ、そうだな」
私の中で、幾つかの断片が纏まり始める。
「王でもないのにわざわざそんな高価な布で包むといういうのは、彼への尊敬を示しているというのもあるだろうけど……でもそれだけじゃない……本当の意味は……」
「本当の意味は……何だ?」
法王、いやアンソニーが眉間に皺を寄せた。
「うん……尊敬だけじゃなくて、彼の……使徒ペトロという男そのものの来歴を後世に伝えようとしたのかもしれないと思って」
「……なるほどな」
何かに思い当たったのか、アンソニーは背凭れに沈み込んで私を下から見据えた。
「腐れ魔女、お前の推測を言ってみろ……ペトロとは、一体何者だったんだ?」




