ペテロのバシリカ
「この私が大聖堂に入れるですって!?」
耳を疑う言葉だった。
「からかわないでよ! 私が……いや、魔女が……あのBasilica di San Pietro in Vaticano(ヴァティカーノ丘陵にある聖ペテロのバシリカ)に、入れる訳ないでしょ……ッ!?」
言うまでもなく、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂は世界最大級の教会堂建築である。
創建は4世紀と古いが、実は現在の聖堂は2代目であり、1626年に完成したものだ。
本来はコンスタンティヌス1世により、聖ペテロのものとされる墓を参拝するための殉教者記念教会堂として建設されたものであった。
そのため14世紀まで、ローマ司教(現在のローマ教皇)の司教座聖堂は、長らくコンスタンティヌスのバシリカにあったが、アヴィニョン捕囚をきっかけに1377年にローマに戻った教皇によって、ローマ教皇の座所となる。
ちなみにバシリカとは、ローマ教皇の発行する公式文書によって種々の特権を付与された教会堂の事である。
つまりバチカンの大聖堂の本来の性質は、あくまでも聖ペテロの墓地の巡礼を目的とした教会堂なのである。
ではそもそも、聖ペテロとはどのような人物であったのだろうか。
ペテロは、新約聖書に登場する人物で、ガリラヤ湖で弟アンデレと共に漁をしていた時にイエスに声をかけられ、最初の弟子になったとされる。
イエス・キリストの十二人の使徒の一人であり、使徒の頭でもあった。
しかし、最も重要なのは、彼が後世になって初代教皇とされた事である。
主イエスの変容をヤコブとヨハネと共に目撃した後はエルサレムを離れ宣教活動を行ったが、外典によればローマの地でネロ帝に捕らえられ、逆さ十字架にかけられて殉教し、その遺体は、ローマの郊外に葬られた。
その地に後世になって建てられたのが、Basilica di San Pietro in Vaticano(ヴァティカーノ丘陵にある聖ペテロのバシリカ)という事なのだ。
今日においては、ペテロは教皇の権威のいわば源だと言って良い。
そのシンボルとして彼が持っているのが----天国の鍵だ。
では、天国の鍵とは一体何なのか。
システィーナ礼拝堂には、そのものズバリの『聖ペテロへの天国の鍵の授与』という壁画装飾が描かれているそうだ。
主イエスより十二使徒の長として選ばれた聖ペテロが、大きな鍵を受け取っている場面である。
その鍵でペテロは天国の門を開閉する事ができ、ひいては死んだ人間の選別を行うという役目を与えられたとされている。
同じくシスティーナ礼拝堂にある『最後の審判』では、ペテロは鍵を手にした白髭の老人として描かれている。
鍵がなくては天国が開かれないため、イエスによる救済の思想を根本とする教会において、ペテロの後継者たるローマ教皇は強大な特権を得た。
バチカン市国の国章およびローマ教皇庁の紋章に鍵が描かれているのはその事を示している。
紋章に描かれている鍵は二本。
これは、右の金色の鍵は天の国における権威を示し、左の銀色の鍵は地上における教皇の霊的司牧権能を意味している。
鍵の先は上、または天を指し、鍵の握り部分は下(この世)に向きキリストの代理人の手にあることを仄めかしている。
二本の鍵を結んだ紐は、天国とこの世に渡る二つの権威の関係を示しているそうだ。
もちろん、天国の鍵というモノが実際に存在する訳ではない。
日曜日のミサなんかでは、鍵とはつまり信仰心であり、イエスを信じる心があれば天国への門は開けるのですなどという感じで説明がされている。
----と、まぁ、ここまでがいわゆる教科書的なお話だ。
「……で、その天国の鍵っているのは……本当のところ、実在するのよね?」
私の言葉に、ピウス十三世は十字を切り、そして重々しく頷く。
「左様……近年に入って最も詳しい調査を行ったのが、ピウス十二世と……そしてヒトラーだ」
「早い話が、墓暴きをしたって事なのね?」
見た事もないはずの地下墓所の湿った空気が私を包む。
「へぇ、都合のいい時だけ信仰と科学は両立するようね」
「ニュートンが神学者だったという事は、今日び小学生でも知ってる筈だが?」
ベルリンの地下壕で感じた異質な気配が、亡霊のように立ち上って来る。
「調査の結果、双方の結論は見事に一致した……天国の鍵はおろか……天国そのものが実在するという正気の沙汰ではない結果が、な」
「……トゥーレ協会の最終目的は……それだったの……?」
眩暈を覚えながら、しかし私はこうなる事をどこかで知っていたような気がしていた。
(いや、私も知っていたはずだ……遠い昔に、約束の地を決して忘れないように……そして、いつかそこに再び辿り着くようにと……言い残されて……)
約束の地。
天国。
恐らく、その『天国』は、今は海の底に眠っている----。
「……結局、全ての矢印はアトランティスを示しているって訳ね」
私を取り巻く何もかもが繋がっているのだ。
そう、まるで結び合わされた二本の鍵のように----。




