砂と雨
「メリッサ! メリッサ起きて!」
腕の中の少女を揺さぶり、私はふらつく脚で立ち上がる。
長すぎる夢を見た後のような頭の重さと咽喉の渇きが不快だが、今はそんな事はどうでもいい。
「こっちは終わったわよ! 貴女も早く目を覚まして!」
ネプトゥーヌス。
サルース。
そして、ケレース----。
闇の中に立つ神々は、確かにトレビの泉の彫像だ。
その前に、蝙蝠傘が一本ポツンと置かれている。
だからここは現実の世界だ----多分。
(大丈夫……ここはもう杜門じゃない……私、ちゃんと戻って来られたんだ……!)
女神ヘカテーの守護に感謝しながら、私は祈るような気持ちで念話の回路を開く。
『カーラ私よ……今戻ったわ』
『座標確認しました。今から回収班を向かわせますのでその場で待機願います』
支援AIの声に、心なしか少し焦りが滲んでいる。
『ところでアイリス、アンソニーとの回路は開けますか?』
『アンソニーに何かあったの?』
カーラが置いた普段よりほんの僅かに長い間に、私は確信する。
やはり杜門の中での出来事は夢ではなかったのだ。
『貴女が杜門に入ったのと同時に彼との回路が断絶しました……今から13秒前です』
『え、13秒って……それしか経ってないの……!?』
絶句しながら私は改めてマヌエルの力の強さに身震いする。
あの無限に引き延ばされた時間と空間の中に囚われていた間に、現実世界ではたったそれだけの時間しか過ぎていないという事なのだ。
(あの子の力は……『魔女』の根源の力……モルガナのそれに限りなく近い気がする……)
だとすれば、それはつまり私にとっても人間にとっても強敵だという事に他ならない。
(恐ろしい力だけど……でも、すごく……懐かしい感じだったのはどうして……?)
『想定しうる全ての周波で呼び掛けていますが、返事がないのです』
『……【case-M】の時と同じよ。脳を、今度は内側からやられてるんだと思う』
その一言で、カーラは全てを察したようだった。
『魔女の攻撃を受けたという事ですね?』
『そう、庭園管理局のリストから漏れた魔女がいる』
法王が今どんな状態なのかは想像するしかないが、あれほどまでに脳を酷使されていたのだ。
受けた損傷は相当深刻なはずだ。
『それはそうと早くこの子を回収……』
言い終わらないうちに、回路はブツリと切られてしまった。
カーラがこれだけ心配しているなら、私の心配は要らないようだ。
「……あんな腐れ司祭の事よりも、こっちの方を心配しなさいよ」
顔を顰めながら私はメリッサに上着を掛けてやった。
「メリッサ! 起きて……!」
「……う……ぅん……」
だらりとしていた少女の腕が動き、目を擦る。
「……迎えに来てくれてありがとう」
私がそう言うと、少女は嬉しそうに目を細める。
「だってアイリスは私のモノだもん」
「……?」
砂と化し、砂から再びヒトの形となった魔女が、笑う。
「もし逃げたって、必ず連れ戻しに行くんだから」
「逃げるって……そんな事できる訳ないでしょう」
笑って答えたつもりだけど、杜門の中での出来事など知らぬはずの少女の言葉は、私の心臓に突き刺さった。
もし私があの時マヌエルの手を取っていたら、この少女は----。
いや、考えるのはやめよう。
今の私にできる事は、一つしかない。
私が呼んだ名前は、たった一つしかない。
「……さぁ、帰りますよお姫様」
少し青白い額にキスをして蝙蝠傘を拾う。
「やだぁ、もう少し……」
そう言ったかと思うと、少女は再び寝息を立て始めた。
「……寝るんかい!」
一気に重たくなった身体を抱え直して、私は蝙蝠傘を広げた。
それが合図かのように、大粒の雨が地面を叩き始める。
白く乾いていたトレビの泉が、生気を取り戻していく。
古の魔術兵器が、俗世に塗れた観光名所としての顔に変わっていく。
「……うん、私はこっちの方が好きかな」
私達を取り囲むようにして待機している回収部隊に向かってそう呟いたが、返事はもちろん返ってなど来なかった----。




