カラビ・ヤウ
「マヌエルやめて!」
飛び退いた足元も、白く発光している。
水鏡に映る森のように、うねうねと続くニューロンの群れが遥か下まで伸びているのが見える。
それはつまり過去と現在と未来が混然一体となって永遠に引き延ばされていく様なのだと、私は直感的に理解した。
「ダメよ、やめて……!」
私はもう一度叫んだ。
「こんな事してたら、元に戻れなくなってしまうわよ!」
こんな世界は、あってはならない。
許されない。
様々な拒否の言葉と、恐怖の感情が私の中を駆け巡っていた。
「これが……こんな異常な……幻が、私に見せたい世界なの……?」
異常な世界----。
まさしくそれ以外に呼びようのない世界に、私の『世界』は塗り替えられていた。
「異常だなんて、姉上らしくない表現だね」
マヌエルは少し残念そうな顔をした。
「この世界は、僕達にしか見えない特別な世界なのに」
「特別な世界?」
特別だろうが何だろうが、私はこんな世界は好きじゃない。
過去と現在と未来は、こんな風に混じり合ったりはしていない。
過去は過去。
現在は現在。
未来は未来。
そうであるべきだし、そうでなければならない。
だって、そうでなければ----。
「姉上ならもう分かっていると思うけど、宇宙は空間の9次元と時間の1次元、計10次元の時空で構成されているんだ」
弟の口調が改まったものに変わる。
「……そのうちで僕達が認識できるのは3次元の空間と時間の1次元だけ、って説……何だか分かる?」
「ええと、待って……それって確か超弦理論……よね?」
私は額を押さえる。
まさか自分の弟の口からこんな話が出て来るとは思わなかった。
「でも……その説は実験による裏付けがほぼ無い状態なんでしょ? 理論としては優れていても単なる仮説に過ぎないし、実証しようにも実験に必要なエネルギー量は人類に扱える範囲を大幅に上回っていると想定されているから……そもそも実証は不可能な永久の仮説なんじゃ……?」
仮に超弦理論でこの宇宙(もしくは世界)の構成を説明しようとすると、残りの6次元(余剰次元)をどう説明するのか。
学者達は、カラビ・ヤウ空間という人間には知覚できない極小サイズにまでコンパクト化された空間にそれら余剰次元が存在するとしている。
「そこまでいくと、もう科学なのかオカルトなのか分からないわよ」
カラビ・ヤウ空間。
もしくはカラビ・ヤウ多様体。
人間がどんなに探し求めても触れる事のできない次元。
三次元の牢獄から解き放たれた者にしか見えない、多次元の世界----。
「……確かに、科学的に証明できないのなら、単なるオカルトと変わらない」
「そうよ」
オカルト。
魔法。
解き明かせない、何か----。
「科学的でない……そう、それって姉上が一番嫌いな事だよね」
弟は微笑む。
ちゃんと分かっているよという表情に、私は不覚にも安堵してしまう。
「でも、科学では絶対に解き明かせない真実というのがこの宇宙には存在しているんだって、僕は分かったんだよ……」
「え?」
ニューロンの森が揺れる。
果てしなく、白い世界が広がって行く。
「人間がどれだけ足掻いても届かない世界……残りの6次元に繋がる世界……それこそが、この森なんだ」
白く小さな手が、私に向かって差し出される。
「どうして魔女が森の中にいるのか……これこそがその答えだって、僕は分かったんだ」




