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トロイの木馬

「あ、貴方……どうしてここに……?」


 分かっている。

 これは幻影だ。


 脳が見せている幻の姿だ。


「ここは、私の世界……私の心の中のはずよ……!? どうして貴方が出て来るの……?」


 落ち着いている振りをしたつもりなのに、出て来た声は酷く震えていた。


「どうして……?」

「それは、ここが僕の世界でもあるからだよ」


 何一つ変わっていない。


 絹糸のように細い金髪も。

 冬の空のように澄んだ青い瞳も。


 まだ声変わりを迎えていない少年特有の、甘さを含んだソプラノの声も。

 

 全てが、どれ一つも欠けていない。


 直感で分かる。


 目の前のこの少年は、本当に私の弟なのだと----。


「……信じてくれたみたいだね」


 マヌエルが安堵したような表情になった。


「……でも、ここは……? この森は、どうしたの……?」


 よりにもよって、忌まわしいあの森を、なぜここまで完璧に再現されているのか。

 

 そもそも、仮に本物だったとして、どうやって魔女であるはずの私の精神に侵入して来られたのか。


 何よりも、ただの少年だったはずの弟が、何故そんな『力』を持っているのか。


 人間一人一人の脳の中にある『世界』を侵す事ができるのは、『魔女』だけのはずだ。


 私は激しく混乱していた。

 これまで『処理』してきたどの敵と対峙した時よりも、私の動悸は激しくなっていた。


 なのに、どんな魔女を前にした時よりも、私は----私の意識は明瞭になっていた。


「……そうか、ここは抽象化された貴方の意識の中なのね」

「そうだけど、同時に姉上の意識の中でもあるんだ」


 そうか、ここは私の脳の中なのか。


 少しだけ得心して、私は視界を遮る茂みを見上げる。


 ここは森という名のニューロンの密林なのだ。

 杜門など、単なる入口に過ぎなかった。


 私の弟は----いや、弟と仮定されるこの何者かは、法王庁が魔女達に仕掛けた術を踏み台として、私の脳内に直接侵入したばかりか、意識の共有までやってのけた。


 さしづめTrojan horse(トロイの木馬)といったところだろうか。


 とはいっても、あのギリシア神話のトロイア戦争に出て来る木馬ではなく、コンピュータの話の方が分かりやすいかもしれない。


 コンピュータの世界でトロイの木馬と言うと、コンピュータの安全上の脅威となるソフトウェアであるマルウェアを指すが、この少年は、恐らくはフォロロマーノに八門の術が施された際に、何らかの方法でそのマルウェア的なプログラムを仕込んでいたのだ。


(トリガは、私が杜門へ入った瞬間か……)


 私は確信する。


 私がニクスを灰にした後でメリッサのもとへ戻ろうとしなければ、この杜門は開かれる事はなかった。

 つまり、私の思考を全てなぞり、先回りしなければ、この『術』は発動できなかった。


 それら全ての過程を自らの意思で選択し行う事ができるのは、並みの精神力ではない。

 

「すごいわね……こんな事、カーラにも多分できないわよ」


 私の口から出たのは素直な感嘆の言葉だった。

 その言葉に、少年は目を輝かせた。


「本当にそう思ってくれる……!?」

「……ええ」


 頬を軽く上気させたその顔に、私の胸は甘く痛んだ。


 剣術でも勉強でも、マヌエルはいつも私の後を追いかけてばかりだった。

 狩で獲物を取り逃がした時、聖書の暗唱を間違えた時、父上に叱責されたマヌエルを慰めるのは私の役だった。


 私は繰り返し言い聞かせたものだった。


 大丈夫、貴方は素晴らしい子よ。

 貴方は、大きな可能性を秘めている。


 貴方には、きっと大きな、誰も持っていない力があるわ----。


「僕、姉上に褒められるのが一番嬉しいんだ」


 少年は、笑った。


「ここまで来られたのも、姉上のおかげだよ」


 森が、ざわめく。

 風もないのに、全ての木々が----いや、ニューロンが、神経回路を形成していく。


「姉上が僕をここまで成長させてくれた……ううん……姉上が、この力を僕にくれたんだ……」


 がくん。


 森が、揺れた。


 私の視界が、白く弾けた。


「……ッ!?」


 声にならない悲鳴を上げて、私は目を見開いた。


 だが、その目に映ったのは、四方に向かって枝を伸ばしていくニューロンの群れと、その中心ではにかんで笑う私の弟だけだった。


 昏かったはずの森は、今や目を開けていられないほどの光に包まれていた。


「……これは、姉上が僕にくれた力なんだよ?」


 凄まじい速度で、私の弟の『世界』が増大していく。


 私の『世界』が、私の愛する弟マヌエルの『世界』に呑み込まれ始めていた----。



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