水音
「……ここは?」
どうやら私は、生い茂るトウヒの間を縫うように続く細い細い獣道に立っているようだった。
「……ここが、杜門の中なの……?」
暗闇の中、私は一歩を踏み出す。
何かを踏んだのか、爪先でポキリと小さな音が弾けた。
たぶん、小枝だ。
「そんな……!」
思わず小さく悲鳴を上げそうになる。
分かっている。
ここは本物の森ではない。
どんなに現実のようであっても、術によって組み上げられた仮想空間でしかない。
現実の世界では、私は二十一世紀のローマの真ん中に立っている。
だから----そう----恐れる事は何もない----。
なのに、心臓がバクバクと音を立てている。
胸が震えるのが自分で分かるほどに、跳ねるような鼓動を打ち続けている。
「違う……ここは、あの森なんかじゃない……」
そう呟いた私を、トウヒの重たくて甘い香りが包み込む。
「違う……違う……」
ぴちゃ……ん……。
どこか遠くで水が滴る音が響いた。
鼻をつく獣の体臭が、ゆっくりと近付いて来る。
「ここは、『あの森』なんかじゃない……!」
私の言葉は闇に空しく吸い込まれる。
あの時に嗅いだのと同じ匂いが、私に向かって近付いて来る。
私と----そう、弟に向かって----。
「……マヌエル? どこにいるの!?」
私は叫んでいた。
「マヌエル! マヌエル……ッ!?」
だが、返事はない。
(当たり前だ……ここは杜門の中……あの子がいる訳はない……)
私は強く唇を噛み締める。
杜門が凶門とされる所以はこの幻覚のせいなのだろう。
(なるほど……ここに長く留まると精神をやられるって寸法ね)
首を振り、私は獣道を勢いよく駆け出した。
(脳への刺激によって人の記憶を深層から表層意識へと引き摺り上げる……なんてところかしら? あまり趣味が良いとは言えない術ね)
そうと分かれば恐れる事は何もない。
ただひたすらシナプスへの刺激を受け流し、出口に辿り着くしかない。
「はぁ……ッ、はぁ……ッ……」
だが、走っても走っても、森を抜ける事はできない。
それどころか、気が付けばもう足元も見えないほどに闇は深まっていた。
(……この感じ、まさか……森の奥に入ってしまったって事……!?)
愕然として脚を止めた私のすぐ後ろで、何かが動く気配がした。
「……ッ!?」
振り返った私の目に、信じられないものが飛び込んで来る。
(……あ、あぁ……まさか……そんな……)
ぴちゃ……ん……!
頭の中で水音が弾けた。
(これは幻覚……なのよね……?)
脳が揺さぶられたのかと思うほどの眩暈に、私は辛うじて耐えた。
「……姉上、どうして魔女が森の中にいるのか、僕やっと分かったよ」
私の弟はそう言うと、はにかんだような笑みを見せて私を見上げた。




