パウリの指
捨てられた少女は、自分の妹の亡骸と共に、村外れの小屋でひっそりと生きていた。
少女の養母は少女の存在を誰にも明かさなかった。
だからこそ少女は細々と生き永らえている事ができた。
だが、それは果たして幸運だったのであろうか。
私には分からない。
少女の棲む小屋の周辺には、いつしか怪異の噂が立つようになっていた。
すぐそばの沼地で誰もいないはずなのに声を聞いたという者。
連れていた馬が突然暴れて逃げ出したという者。
そして、鬼火を見たという者----。
「でも私は……何もしてない」
「ええ、そういう体質の人間はたまにいるみたいね」
その人間がただその場に存在しただけで周囲の生物の感覚を乱したり、精密な機械を壊してしまうという現象があるという。
「偉そうに……ッ! なりそこないに私の何が分かるっていうのよ!?」
「分かるわよ……貴女については、ある程度科学的な説明が可能だわ」
スイスの物理学者ヴォルフガング・パウリに因んでパウリ現象と呼ばれているそれは、一般的には物理学界における古典的ジョークとされているが、実は愚者火の発生メカニズムと深く関わっているのだ。
「貴女達姉妹のいた小屋は、多分いわゆる幽霊屋敷的な空間になっていたんだと思う」
幽霊屋敷。
オカルトスポット。
まぁ、呼び方は何でもいい。
「要は、そこに行くと霊的なモノを見聞きすると言われている場所ね……ポルターガイストが発生するとかとか」
「なによソレ? ごちゃごちゃ言われたって全然分からないんだけど?」
ニクスは憐れみの目で私を見る。
それはそうだ。
魔女にとってその術は、千の言葉にも勝る。
飛ぶ事もできず火を操る事もできずにただ喋っている私は、戯言を並べているだけの、人間でもない魔女でもない、単なる目障りな存在だ。
だが、これが私の仕事なのだ。
魔女の術を千の言葉で分解し組み直し、世界の調和の一部へと嵌め込むために、私は言葉を紡ぐ。
「つまり、貴女の周囲で起きていた怪現象は、貴女自身の体質によって引き起こされていたものなの」
ヴォルフガング・パウリは、物理学者でありながら触れた実験用の機器を悉く故障させてしまう事で有名であった。
ちなみにアイシュタインと並び称される程の頭脳を持ち、理論物理学という分野に貢献した一方で、パウリは錬金術や数秘術にものめり込んでいたという。
もしかすると、自分の体質と魔術に何か共通するものを発見していたのかもしれない。
「確かに、貴女は何も知らなかった……最初のうちはね」
いくら特異体質とはいえ、人間、それも小さな少女一人の指先が引き起こすパウリ現象には限度があるはずだ。
「でも、小屋の周辺での怪異はその脅威を増し始めた」
旅人が鬼火に誘われて沼に沈んだ。
近くを通った村人が死者の声に呼ばれて狂ってしまった。
そして----少女ニクスを匿っていた養母の家が、焼けた。
「……ママンは私を可愛がってくれたわ」
少女は目を伏せる。
「でも……私の妹の事をバケモノって呼んだの」
その瞳には鬼火が宿っている。
「私の腕から妹を取り上げようとして、初めて私をぶったの」
昏い憎しみの沼の上で、ゆらゆらと揺らめいている。
「許せなかった……私の妹を取り上げようとしたあの女は、もう私のママンなんかじゃなかったから……」
生き永らえた事は、果たして幸運だったのだろうか。
そんな事は彼女自身にも分からないだろう。
「私と妹は二人で一つなの……離れたら、死んじゃうの……」
嬰児の死体を抱いた少女は、どこにも行けない。
ただ、名前もなく、神の祝福も受けずに生きて来た少女が取るべき道は、中世と言う時代には一つしかなかった。
「もう、誰にも守ってもらえないなら、私が妹を守るしかなかった」
だから少女ニクスは、養母を焼き殺したその瞬間に魔女となったのだ----。




