エッファタ
「エッファタ!」
私は叫んだ。
アラム語で『開け』という意味であり、ストライガ出撃専用空間の開錠コードである。
コインの落ちる音は----いつまで経ってもしなかった。
ゆらり----。
トレビ広場の空気が大きく揺れた。
ぐにゃ----り----。
空気----いや、広場の空間そのものが泉に吸い寄せられていく。
時空の歪がトレビの泉に形成されていく----。
(……来る!)
私は、水のない泉へと向き直った。
トレビの語源については諸説がある。
かつての地名だったという説もあるが、クレメンス12世はラテン語のtriviumすなわち『3つの道』もしくは『三叉路』が語源となっているとして、この噴水を法王庁防衛のための重要拠点の一つとし、聖遺物と同レベルの対魔女結界発生装置に改造したのだ。
泉を護るローマ神話の神々もまた、3人である。
中央には水を司るネプトゥーヌス(ポセイドーン)が立ち、その左には豊饒の女神ケレース(デーメーテール)が、右には健康の女神サルース(ヒュギエイア)が配置されている。
その3人の神々の前----階段状になった噴水の上に、
「もう、遅いよッ!」
靴音を高らかに鳴らしながら、黒髪の小さな魔女は降り立ったのだった。
「あと十何秒とかでここの通路も閉じちゃうところだったんだから!」
腰に手を当て少しばかり息を切らせているのを見て、ほんの少しだけ私は申し訳ない気分になった。
しかし基本的には、怒るなら作戦を立てた人間に怒って欲しいものである。
「いや、これでも精一杯走ったつもりなんですけど……」
古びた蝙蝠傘に、黒いランドセル。
そして、きっちりと着込んだロングコート。
白亜の大噴水のただ中に現れた小さな漆黒に、私は恭しく右手を差し出した。
「お待たせいたしました、我が主……」
その言葉が終わらないうちに、少女は私の前に飛び降りた。
「私、待つのはキライだって言ってるでしょ」
「かしこまりました」
芝居じみたやり取りだが、神々に囲まれたこの場所ではこれが相応しいような気もした。
「……なによ、そのちびっ子がその噴水から水でも出そうっていうの?」
愚者火の魔女が胡散臭げな顔で私達を見ている。
そもそもメリッサとたいして歳は変わらないように見えるのだが、まぁ、魔女は見掛けでは年齢は分からないものなので、そこは私は聞かなかった事にした。
「さぁ、起動をお願いします」
「うん……えっと……」
私がランドセルを降ろさせ端末を引っ張り出している間に、メリッサはロングコートの前を開け、すぅと息を吸って目を閉じた。
「……これだと思う」
内ポケットから抜き取った一枚のディスクを、端末に押し込む。
「……父と子と精霊の御名において、我、ファイルyodより古の力をここに解放せり!」




