泉へ
くるりと踵を返して、私はオベリスクの下から駆け出した。
「……ちょ、ちょっと……!? どこへ行くのよ!?」
愚者火の少女が戸惑った叫びを上げる。
「早く私を倒さないと、この街を全部燃やしちゃうんだからね!?」
「悪いけど貴女に構ってる場合じゃないのよ」
向かう先は、トレビの泉だ。
元は古代ローマ時代に皇帝アウグストゥスが作らせた噴水だが、のちに教皇クレメンス12世の命により改造され、現在では市内最大のバロック時代の噴水として観光名所となっている。
振り返りもせずに、私は走る。
明りの消えた街はまるで遺跡になったかのように静まり返っていて、上空で音もなく回転している幾本もの封印帯の煌めきだけが、私の視界に突き刺さる。
「はぁ……はぁ……ッ……はぁ……ッ……」
アドリアーノ神殿の前を通り、マック・ドナルドとかいう店の看板が見えてくる----1キロもない道のりのはずだが、さすがに呼吸が乱れて始めていた。
『……来てる?』
『後方100メートルに反応あり……このペースだと目的地手前で追い付かれそうです』
それはそうだ。
こんな大剣背負って走っているんだもの。
気分はマラトンの兵士だ---というのは少し大げさだけど。
『トレビの泉ってあとどのくらい!?』
『約300メートルです』
猛ダッシュする私の背後に、気配を感じる。
愚者火が、ふわり、ふわりと、私の後を追いかけて来る。
『あと250』
カーラの声が非情に響く。
「ねぇ、待ってよぉ……!」
「待たないわよッ!」
最後の力を振り絞るようにして石畳を蹴り上げたその時、霞みかけた視界の先がようやく開けた。
トレビ広場に着いたのだ。
「……やった!」
広場に鎮座した大理石の噴水の前で、私はようやく振り向く事ができた。
「なぁんだ、駆けっこはこれでおしまい?」
広場の隅のガス灯を模した街燈の天辺で、ランタンを抱えて少女が嗤っている。
「お姉ちゃんったら、ホント、ただの人間みたいなのね」
「だから人間だって言ってるでしょ」
トレビの泉は夜も明りで照らされているらしいが、今は噴水はもちろん照明もない。
水を抜かれた池が、がらんと広がっているだけである。
「私は魔女なんかじゃなくてただの人間……でも、魔女を一人だけ呼ぶ事はできるのよ」
私は池に背を向け、スーツのポケットから銀貨を取り出した。
「……はじまりの魔女を、ね」
その銀貨を、後ろに向かって思い切り投げる。
このトレビの泉には、コインにまつわる有名な迷信がある。
後ろ向きにコインを泉へ投げ入れると願いが叶うというものだ。
コインを一枚投げれば、再びローマに来ることができる。
コインを二枚投げれば、大切な人と永遠に一緒にいる事ができる。
コインを三枚投げれば、配偶者や恋人と縁を切る事ができる。
三枚で縁切りができるというのは、キリスト教が離婚を禁止していた当時の名残と言われている。
だが----実はこの『3』という数字は、このトレビの泉ではとても重要視されている数字でもある。




