Top of the World
コンクラーヴエを経て教皇に選出されてから十日の後、フランチェスコ・パチェリは法王ピウス十三世として即位式に臨んだ。
法王とは聖なる父であり、神と人間の間の架け橋となる神官であり、そして地上における唯一のキリストの代理者としてこの世界の頂点に立つ者である。
そしてその新たな法王の誕生を祝うローマの街もまた、永遠の都としての歓喜に沸いていた。
サン・ピエトロ大聖堂は数万の市民で溢れ、青空の下のサン・ピエトロ大広場は押し寄せた信徒達で立錐の余地もないほどだ。
人の波はテベレ川の畔にまで及び、新法王の即位は全世界の祝福の中、荘厳に行われた----。
私とメリッサは、その地下で即位式の様子を固唾を呑むようにして見守っていた。
全ての映像は、カーラの瞳を中継して、メリッサが手にしたノートパソコンに送られて来ている。
「……まさか、アイツがパチェリ家の末裔だったとはね」
白いカラスは、主の肩で微動だにしない。
刺繍と金箔で煌めくミトラ冠の横で、まるで装束の一部であるかのように、艶やかな白い羽を休めているのだろうか。
「アンソニー、もう温室へは来ないの?」
「それは分からないわ……」
法王が魔女に直接会うような事は許されてはいないはずだ。
だが、『棟梁』が法王になった場合は----それは分からない。
「アイツは、たぶん……そう、今までのバチカンをひっくり返すつもりなのかもしれない……」
頬を寄せ合うようにしてノートパソコンを覗き込む私達の頭上で、新法王は全世界に向けて神の祝福を授けている。
そして同時に、私達魔女の脳内とも接続している----。
「神と共にあれ、か……」
世界中の信徒に向けて、新法王は繰り返し平和を説いている。
全ての垣根を超えた理解を説いている。
(でも、アイツの本当の目的は何なのかしら……?)
パチェリ家は、代々法王に仕えた名家であり、いわゆる『黒い貴族』と呼ばれる一派の中で重要な役割を果たして来た。
黒い貴族とは、1870年から1929年にかけてのイタリア王国のローマ問題(バチカン捕囚)において、ローマ教皇と教皇庁を支持する立場をとったローマ貴族達の呼称である。
ローマ教皇領を占領して1870年9月20日にローマ入城を果たしたイタリア王国の統治者サヴォイア家に忠誠を誓うことを拒み、教皇ピウス9世の側についた。
彼らはその先祖がかつて教皇庁に仕え、教皇により貴族に列せられた者達の子孫で、教皇庁や教皇の宮廷において、枢要な地位を占めていた。
1929年のラテラノ条約の締結により、彼ら黒い貴族達はイタリア王国とバチカン市国の二重国籍者となった。
「黒い貴族」に属する貴族家門の多くは、教皇に仕える貴族儀仗兵(Guardia nobile)を出していた。1931年、スペイン王アルフォンソ13世は、カトリック諸国の全ての貴族家門出身者に、貴族儀仗兵となる資格を認めるよう願い出たが、教皇ピウス11世はこれを認めず、1970年に廃止されるまで教皇忠誠派のローマ貴族のみが貴族儀仗兵を出し続けている。
それほどまでに彼ら黒い貴族は法王、そしてバチカンというシステムそのものへの忠誠心が篤いのだ。
『……そんなに不思議か?』
突然アンソニーに問われ、私はノートパソコンを取り落としそうになる。
『あ、いや……その、そんなにプライドのある出自なのに、どうしてその名前にしたのかなって……』
『庭師』達が本当の名前を名乗る事がないのは私達魔女も良く知っている。
真名を知られる事は呪術的な意味では死に等しいからだ。
だけど----何故、この男はアンソニーなどという英語圏の名前を私に名乗ったのだろう?
『……私の、前世での名前だ』
祝福は佳境に入っている。
法王は胸の前で両手を合わせ、滑らかなバリトンであまねく地上に神の声を知らしめる。
『……ベルリン出撃前のチョコレートの味はまだ覚えてるか、アイリス?』
地上の信徒達が、一斉に跪く。
十字を切り、歓喜の声を上げる。
私の脳が揺れる。
世界が、揺れる。
地鳴りのような歓声が、サン・ピエトロ大聖堂を揺らす。
法王ピウス十三世は、それに応える。
『Et benedictio Dei omnipotentis, Patris et Filii et Spiritus Sancti descendat super vos et maneat semper』
全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆の上に常にありますように----そう締めくくるこの世界で最後の法王の言葉を聞きながら、私の意識はゆっくりと闇に沈んだ----。




