第四部 炭とチョコレート
「ねぇアイリス……そういえば貴女の舌って、まだ治ってないの?」
地下室の食堂で、私の膝の上に乗りかけた少女は小首を傾げ、そう尋ねた。
金の燭台には、蜜蝋の蝋燭が七本。
テーブルの上には、空になった大皿が一枚。
零れた水滴が、蝋燭の炎を反射してキラリキラリと時折輝く。
「治る事はもうないでしょうね……でも、もう慣れてるし」
「でも、舌を治したらアイリスだってキスが好きになると思うの」
さりげなくとんでもない事を言いながら、もぞもぞと小動物のような動きで膝に乗り、私の顔の上に覆い被さって来る。
「私なら、貴女の舌を治せるかもよ?」
黒髪が、さらさらと音を立てる。
「だって、私は……はじまりの魔女なんだもん」
「……そうね」
無邪気な言葉に、私は曖昧な笑みを浮かべる。
それを承諾と取ったのか、少女は私の唇に自分の唇を寄せて来た。
「大丈夫……絶対治してみせるんだから」
「……んッ」
もう何十回も何百回も重ねて来た仕草だというのに、私はまだ慣れていない。
お尻を叩かれると分かった子供のように、おどおどとした瞬きを繰り返してしまうのだ。
それに気付いているのかいないのか、メリッサは私にゆっくりと口付ける。
「……ふぁッ」
子供が医者の真似をしているかのような、生真面目で、しゃちこばった動きで、唇を舌先でこじ開ける。
「んあ……ッ、メリッサ……ぁ……ッ、はぁ……ッ……」
家畜に与えるにしては優しすぎる感触に、私は震えてしまう。
甘い熱が唇から首筋を伝い、背骨を熱く満たしていく。
(あぁ……メリッサの口……チョコレートの味だ……)
ついさっきまでお菓子の国に君臨していた小さな女王が、私の首に回した腕に力を込めた。
「……ふぁッ、あ、はぁ……ぁッ!?」
吸われるたびにチョコレートの味と香りが、私の脳髄を痺れさせていく。
満たされるという感覚と、奪われているという恐れが、ひたひたと押し寄せてくる----。
「んあぁ……ッ、はぁ……ッ……」
遠い記憶の中のチョコレートは、こんなに甘かっただろうか----?
分からない。
当たり前だ。
私の舌は、火刑に処されたあの時から炭と化したままなのだから。
チョコレートが甘くて美味しいというのは、そういうものだと教えられたからだ。
「はぁッ、アイリス……ッ……アイリスぅ……ッ……」
この柔らかくてぬめぬめとした器官は、偽りの姿を保っているに過ぎない。
くちゅくちゅと響く水音は、実は私にしか聞こえないのかもしれない。
そもそもこの私という存在のうち、どこまでが本物なのだろうか。
それでも----この偽りの甘さに、私は何度も慄くしかない。
「……やっぱり何も変わってないわよ?」
口元を拭い、私は少女に告げる。
「普通に考えて、キスしてるだけじゃ治らないと思うんだけど」
「うーん……もしかすると、何回やれば治るとか決まってるのかも」
少女はしれっとした顔でそんな事を言う。
「千回キスしたら治るとか……ダメ?」
「……その言い方だと、なんか唇腫れそう」
原因の張本人を私は抱き上げ、床に立たせる。
「法王様の魂が奇跡を起こしてくれるのを少しは期待してたんだけど……こんな場所までは届かなかったみたいね」
今頃地上ではローマ中の鐘の音が鳴り響いているのだろう。
大広場には敬虔な信者達がひしめき、地上におけるキリストの代理者の死を嘆き悲しんでいるはずだ。
「法王様、死んじゃったの?」
少女は天井を見上げた。
まるでその遥か向こうに聖なる父の魂を見ようとでもしたかのように。
「どうして? 悪い魔女にやられたから?」
「それはないと思うわ……法王の周りには普段からアンソニーがアホみたいに結界を張ってたと思うし」
いつだったか、司祭枢機卿を夜中にホットラインで呼び出した時、大事なミサがあると言っていたが、もしかするとそれは信徒向けのものではなく、秘術を用いた『より実践的な』ミサだったのではないだろうか。
司祭服に微かに残っていた没薬の香りが甦り、それは不意に硫黄の匂いへと変化した。
「法王様が死んだら、誰がこの温室を護るの……?」
「新しい法王様よ」
硫黄の匂い。
地獄の奥底から私を呼ぶ、忌まわしい----けれど、泣きたくなる程に懐かしい何者かの気配。
「……ううん」
少女はかぶりを振る。
「新しい法王様は、この世界を壊すよ」
「え……?」
朗らかに、まるで祝福を告げに来た天使のように、メリッサは天井に向かって指を高々と上げる。
「マラキの預言にはそう書いてあるもの……そして、その新しい法王様になるのは……」
小さな魔女の赤い唇は、ゆっくりとその名を紡いだ。
「……フランチェスコ・パチェリよ」




