カルキノス
「だ、誰が……ッ、はいそうですかって大人しく食べられるもんですか……ッ……!」
身を捩って叫んだその時だった。
「そこの魔女ッ!」
タンッ! と靴の踵が鳴る音がして、私は顔を上げる。
「アイリスから離れて……ッ!」
ペスト医の仮面を着けた小さな影が、私と石の魔女の前に立っていた。
まるで冥府からの使いのように見えるが、重たげなコートを着て蝙蝠傘をくくり付けたランドセルを背負うその姿は、間違いなくメリッサだ。
だが----。
「……おちびさん……貴女、ここにどうやって入ったの……?」
石の魔女は、目を丸くして立ち尽くしている。
「え? メリッサ……? えッ? どうやって入ったの……?」
私も驚き過ぎて、スヴィトラーナと同じ事を聞いてしまう。
私の目も、多分負けないくらいに丸くなっているはずだ。
何故なら、外部から封印帯の中への生物の転移はできないとアンソニーから聞いていたからだ。
『お前の大剣は比較的安定しているから空間転移と再構成が可能だが、生き物はまだ難しい……もし出来立ての挽肉を届けて欲しいって言うんなら、別だがな』
そうだ、ましてやあと何回再構成が可能か分からない少女をむざむざ失うような無謀な作戦は、いくらあのアンソニーでも立てないはずだ。
「……貴女、あの封印を破れたの?」
「私じゃなくて、私の使い魔よ」
メリッサは誇らしげに胸を張った。
仮面を着けているので、とてもシュールだ。
「……使い魔?」
「あの蟹!?」
スヴィトラーナと私の声が綺麗にハモった。
「そうよ! 魔女なんだから使い魔の一匹くらい使いこなせなきゃ」
「いやいや、使い魔って……あの蟹が……!?」
私は慌てて目だけ動かす。
そして、咄嗟に首を竦めた。
ザシュ……ッ!
風を切るような音と共に、私を縛っていたダイヤモンドの鎖が解けた----というか、四散した。
「な、なによコレ……ッ!?」
私の後ろに跳び退ったスヴィトラーナが、金切り声で叫んでいる。
「なに、この……化け物……ッ!?」
確かにそれは、化け物としか表現できない巨大な蟹だった。
半透明で、しかしとてつもない質量を持つ、一軒家くらいの大きさの----蟹。
それがハサミをゆらりと振り上げたままの姿勢で、私達を覗き込んでいるのだ。
「……メ、メリッサ……とりあえず、説明して……?」
「うーん」
小さなペスト医は首を傾げて腕組みした。
「私もよく分からないんだけど……なんか……アイリスを助けようと思って呼んだら……こんなんなって来ちゃったっていうか……」
「……ごめん、全然分からないわ」
期待はしていなかったが、要領を得なさすぎる説明に私は静かに肩を落とす。
「気が付いたらここに来ちゃった……みたいな……?」
自分の使い魔なんだからもっとちゃんと使えるようにしなさいよ、という言葉は、蟹ともう一度目が合った瞬間、咽喉の奥に引っ込んだ。
「そ、そうだ……名前は?」
思い付いて聞いてみる。
「カルキノスっていうの、可愛いでしょ?」
「なるほどね……ありがとうカルキノス」
私は大きく息を吸い込んだ。




