第三部 サントリーニ島
エーゲ海の穏やかな風が、波音と共に頬を撫でている。
見渡す限りの砂浜に私達以外の人影はない。
ちょうどオフシーズンだという事で、ここに来るまでの道中も観光地にしては静かだった。
だが、空は青く、海はどこまでも透き通っていて、雨の季節の訪れは私にはまだ感じられない----とはいえ、私が海を見るのはこれが初めてなので、比較のしようもないのだが。
「メリッサ! あんまり遠くへ行っちゃダメよ!」
「大丈夫だってば……! アイリスもこっちおいでよ、ちっちゃい蟹とか魚がいるよ……!」
小さな入り江の砂浜に腰を下ろした私に向かって、浮輪を着けた少女が両手を振っている。
フリルをあしらったピンクの水着が可愛らしい。
ちなみに私は同じデザインの黒い水着だが、文句を言おうにもトランクに入っていた物なので、誰のセンスなのかは分からない。
(しかもまだ香油の匂いが抜けてないし……別にいいんだけど……)
私に限って言えば、庭園局謹製の封印による肉体的な影響というものはないのだが、地味に精神を削ってくるのがしんどいと言えばしんどい。
(それにしてもあの浮輪……海に入らないなら外した方が動きやすいんじゃ……?)
しかし、海辺での正装はこれと決めているのか、少女はホテルを出る時からこのかたずっと浮輪を外さないまま走り回っている。
そう、私達は今----法王庁をはるか離れたサントリーニ島の海辺にいるのだ。
「行かなくていいのか? 蟹なんて見た事ないだろ?」
司祭枢機卿が、ぼそりと呟いた。
「……蟹くらい図鑑で見たわよ」
「そうか」
降り注ぐ陽射しの下で、私とアンソニーはまた無言になる。
到着してから一時間ばかり経つが、私はメリッサの蝙蝠傘を差したまま膝を抱え、アンソニーはその横で標識か何かのように突っ立ったままだ。
潮風にそよぐ純白の司祭服も、私の水着も、全く濡れていない。
「プライベートビーチ、って言うんだっけ? 法王庁はこんなものまで持ってるのね」
「ここだけではないがな……表向きは民間企業や個人が所有しているが実質はバチカンが主有している、という土地は、実は世界中にある」
私達のいる砂浜と、修道院を改装した隣接のホテルも、その一つという訳らしい。
「こうした隠れ不動産は、表には出せない資金を作るには欠かせない……いわゆるバチカンの暗部だ」
言葉の割には深刻さのない声も、潮風がどこかへ運んで行く。
海鳥なのだろうか、時折やたらと長閑な鳴き声が空の彼方から聞こえる以外は、静かだ。
「人はパンのみにて生くるにあらず……信仰だけじゃお腹は膨らまないって事ね」
温室やラボの管理運営に費やされているであろう莫大な費用がどこから捻出されているのか、その一端を垣間見てしまった訳だが、私が思い悩む義理などはないし、悩んだとしてどうにかなる類いの事でもない。
「まぁ、ノーブレスオブリージュとやらの精神でせいぜい頑張って稼いで欲しいわね」
私は手元の砂を掴み、少しずつ下に落した。
さらさらと、何かを囁こうとするかのような音を立てながら、白い砂は不意に強く吹いた風に散り散りになった。
「よく言うぜ……お前がちゃっちゃとこの砂を砂金にでも変えてくれれば、帳簿の書き換えなんてケチな仕事をしなくて済むようになるんだが」
白いスニーカーの爪先で、アンソニーは砂を乱暴に掘った。
その所々には微かな紅い染みが付いている。
「ま、なりそこないの魔女には無理だな」
メリッサは、もう針の先程の小さな点にしか見えない。
私は司祭枢機卿を振り仰いだ。
「……じゃあ、そのなりそこないとポンコツのクローンを特製コンテナに詰め込んで、わざわざ専用機で連れて来たのはどうして?」




