散歩の始まり
夜明け前の温室は、草木の静かな呼吸に満ちている。
私はランタンの灯の中で庭師を待っていた。
外は暗く、星も見えない。
世界最小とはいえ、千人近くの人口を擁する国土の中にあるとは思えないほどに、この中庭は外界から閉ざされている。
(……この上だけ、空がないみたい)
古代の悪神が、ポッカリと大きな口を開けているかのような闇。
『神の加護』によってもたらされた、欠落----。
私は、この場所が嫌いではない。
ここにいれば、人間だった頃に見ていた星を目に入れずに済む。
私だけがまだ朽ちる事もできずに生き永らえているという事実を、思い出さずに済む。
どんなに祈っても、もう二度と時間は巻き戻せないという事実を認めずに済む----。
やがて、小さな灯が一つ、こちらに向かって近付いて来るのが目に入る。
私はランタンを掲げ、ドアの前へと歩みを進めた。
小さな灯はやがて人影を映し出し、司祭枢機卿の顔を浮かび上がらせる。
「そこで待ってろ! 絶対に動くなよ!?」
分厚いガラス越しに鍵を取り出して私に怒鳴ると、封印の解放にしばし没頭する。
ガシャ……ン。
閂が外された。
冷たい夜風が吹き込み、私の髪と草達が、さわさわと揺れる。
「……私の後から付いて来い」
「導線はないの?」
私が尋ねると、アンソニーは苦虫を噛み潰したような顔になる。
「私がプライベートの散歩に部下を招集するほど寂しい人間に見えるか?」
「貴方まさか、魔女に喰われた司祭枢機卿として聖人になる事にしたの?」
しばしの睨み合いの後、私と司祭枢機卿は無言で中庭を歩き始める。