ピアノと諦観
「すごーい! これ、おっきい! すごーい!」
鍵の掛かっていた部屋に入った途端、メリッサは大喜びだった。
「見て! これ……っ! ピカピカして、ツルツルしてる!」
「あ……うん、確かにそうだけど……っていうか、これが何なのか分かってる……?」
私の声も、多分聞こえていない。
部屋の真ん中に置かれていたのは、黒く塗られた、そう、ぱっと見た感じはチェンバロのような----弦楽器らしき物だ。
「わっ、待って……これ、音が出るよ! なにこれ面白い……!」
少女は、鍵盤を出鱈目にポンポンと叩いては一人で喜んでいる。
チェンバロに似ているが、音はかなり違う。全体的に柔らかい感じがするし、音の幅が広い。
「ピアノです。貴女方がラボにいる間にこちらの部屋に搬入させていただきました」
肩に乗った白いカラスの声は、元のカーラβの声にようやく戻っていた。
私も早くこのメイド服から着替えたいのだが、何故かこの姿を気に入ってしまったメリッサに着替えを許してもらえないままこの部屋まで来てしまったのだ。
「貴女の時代にはまだなかった物ですが、原理や弾き方はチェンバロと似ています」
「うーん、確かにチェンバロは館にあったけど、母上が弾いていたくらいで私はほとんど触った事すらないのよね……」
はしゃぐ少女の姿を眺めながら、私はこれから言い渡される任務をなんとなく感じ取り、声の調子を落とす。
「お察しの通りですよ」
「え……ッ、まだ何も言ってないんだけど……?」
慄く私に、AIは高らかに告げた。
「アイリス……貴女には本日よりメリッサにピアノを教えてもらいます」
「やった! 早く弾きたい!」
ピアノの前でメリッサが両手を挙げて飛び跳ねている。
「ピアノの練習をすると脳梁が5倍ほど太くなり、記憶が強化されたり、平衡感覚や言語野の成長にも繋がるというデータがあります。学習能力を高めるだけではなく、情操教育にもうってつけなのですよ」
『……ホントに? なんか上手い事言って私に全部押し付けようとしてません?』
念話モードに切り替え、私は白いカラスにささやかな抵抗を試みる。
『だって母上はチェンバロをよく弾いてたけど、迷信深いままだったし、何かあるとすぐ寝込んで……』
『それは個人差がありますので』
取り付く島もない。
『もちろんピアノだけではなく、他にも色々とプログラムは準備してありますのでご心配なく』
『……え……っ、それ、全部私が教える感じ……なのかな……?』
ポンポンポン。
ポロン、ポロン。
少女は飽きもせず鍵盤を叩いている。
無心に叩いている。
とても楽しそうに、叩いている。
「……分かったわよ」
私はまたしても根負けしてしまう。
「情操教育……私がやるしかないんでしょ? じゃ、やるわよ」