死の誘惑
何が起きたのかは、見なくても分かった。
私の首筋に、魔獣の太い牙が突き立てられているのだ。
「……ッ、くぅ……ッ!」
脈動に合わせて鮮血が迸っているのだろう。血の滴が床に振り撒かれていく音が妙にはっきりと聞こえている。
「んぐ……ッ……くはぁ……ッ!」
私にできるのは、歯を食いしばりながら激痛に耐える事だけだ。
「グルルルル……ゥ……ッ……」
くぐもった唸り声と共に、牙が皮膚を突き破りズブズブと肉へとめり込んで来る感覚は、何度経験しても筆舌に尽くし難いものだ。
それは、自分という輪郭を突き破られ、自我を露わにされ、身体の奥から感情を引き摺り出されるかのような、蹂躙そのものの感覚だ。
『メリッサ……早く……!』
だが、眼前の光景に怯えてしまったのか、メリッサからの応答はない。
「く……ッ、はぁ……ッ……もう、何やってるのよ……」
だが、少女が怯えてしまうのも無理はないのだろう。
獣人と私は、まるで抱擁でもするかのように、一つの影となっているのだ。
ぐっしょりと血に濡れて、そう、まるでダンスでもしているかのように。
「グルル……ルルル……」
静止した時間の中で、私はジェヴォーダンの獣の唸り声を聞き続けていた。
血に塗れたランドセルの肩紐が、手からずり落ちていくのを感じながら。
(分かってたけど、やっぱりこれはキツイなぁ……)
血が溢れていく。
私の意識が、刻々と侵されていく。
私という存在が、空ろにされていく。
(このまま……このまま意識がなくなれば……楽になれるのに……)
これが人間にとっての死の入口なのだ。
(楽になりたい……)
だが、私は死ねない。
もう人ではないのだから。
この身体は、私に死を----安息を許してはくれない----。
「……ッ!」
更に深く牙を突き立てようと魔獣が腰を落とした瞬間、私はランドセルの肩紐を握り直した。
『メリッサ! いくわよ!』